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16445.2月11日の按図索駿:太子町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月11日(土) 07時15分
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★「太子町(大阪府)」ウイキより

・(大阪府)とあるのは、兵庫県にもあるかららしい。

太子町(たいしちょう)は、大阪府南河内地域に位置する町。

町の木はサクラで町の花はユリらしい。

生駒・金剛山地の西麓にある。日本最古の国道といわれる竹内街道が通っている。

89年(明治22年)4月1日、町村制施行により、石川郡磯長(しなが)村、山田村が発足。 磯長村 - 太子村、葉室村、春日村が合併。
山田村 - 山田村、畑村が合併。

1896年(明治29年)4月1日、南河内郡が成立。

1956年(昭和31年)9月30日、磯長村と山田村が合併し、南河内郡太子町となる。

・太子町になって56年か・・

近鉄南大阪線が通っているが、町内には駅はない。最寄駅は同線の上ノ太子駅(羽曳野市)。

・なんと、そういうところもあるんだ・・

・なかなか興味深い街のようだ。これからたのしい時間を過ごせそう。

・画像はウイキと太子町のサイトとyahoo地図より


16444.2月10日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月10日(金) 06時50分
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★「鴨習太神社」ウイキより

鴨習太神社(かもならいたじんじゃ)は、大阪府南河内郡河南町にある神社である。式内社で、旧社格は村社。

主祭神は饒速日命・天照地照彦火明命・櫛玉命となっているが、いずれも饒速日命の別名である。

一帯が物部氏の勢力圏であったことから物部氏の祖神・饒速日命を主祭神としたものであるが、

・うわ!一須何神社の周辺は蘇我氏の末裔石川氏の勢力範囲だったよね・・

・飛鳥時代にどっぷり浸かる感じがする。


社名に「鴨」とあることから本来の祭神は賀茂氏に関する神であるとする説もある。

・賀茂氏なんてあるんだ。


相殿に高皇産霊尊を祀る。

■歴史

創建の由緒は不詳である。延喜式神名帳に「河内国石川郡 鴨習太神社」と記載され小社に列しているが、後に衰退し、所在が不明となっていた。

現在の鴨習太神社は、明治時代まで「天満宮」と称し菅原道真を祀っていた神社である。

万治3年(1660年)11月、附近にあった高皇産霊尊を祀る天神神山神社の社殿が暴風により破壊されたため、当社に合祀された。

・なんか・・・とりあえずこうしとこか!という感じ?

式内・鴨習太神社に比定され、現社名に改称し、主祭神を饒速日命に改めた。明治5年に村社に列格した。

・画像はウイキとyahoo地図より

・この神社は西隣の富田林市との境に近い、つまり河南町としては西の端に近いところにある。

・河南町は位置関係を調べるのが難しかった。

(過去形にしているのは本日で河南町とはおさらばするから。明日からはその北に隣接する太子町に行く。名前からして、飛鳥時代から抜け出せない雰囲気。)


16443.2月9日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月09日(木) 05時42分
Original Size: 539 x 358, 78KB Original Size: 524 x 375, 56KB

★「一須何神社」ウイキより

一須賀神社(いちすかじんじゃ、壹須何神社、壱須何神社)は、大阪府南河内郡河南町(旧石川村)にある神社である。延喜式神名帳に記載されている式内社で、旧社格は村社。

当地は蘇我氏の末裔・石川朝臣の本拠地であり、『河内國式神私考』『渡会氏神名張考證』などでは、元は宗祖・蘇我石川宿禰を祀ったものであろうと記している。

現在の祭神となったのは江戸時代初期とみられ、江戸時代には「天神」と称していた。『大日本神祇史』には「今俗伝市河明神」とある。

・石川氏についてーーーーーウイキより

主に、次の3系統の石川氏が存在する。
1.蘇我氏、蘇我倉山田石川麻呂系石川氏。
2.清和源氏、河内源氏源義時流石川氏。本項で詳述。
3.清和源氏、大和源氏源頼親流石川氏(陸奥石川氏)。

他に、備中の国人である石川氏がある(備中石川氏)。

ーーーーー

・上記のうち1番に匹敵するのがこの一須何神社

■歴史

創建の由緒は不詳であるが、一帯は石川朝臣の本拠地であり、また一須賀古墳群の一角であることから、元は古墳の上にあったものとみられる。

南北朝時代には、当地に南朝方の石川城が築かれ、当社も再三にわたり兵火を受けた。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉は石川郡代官伊藤加賀守秀盛を通して祈祷と境内免許の証を下した。その際に奉納された湯釜が社宝として残っている。

『河内名所図会』には、「一須賀神社は一須賀村にあり、延喜式内今天神と称す。当村大ヶ塚村の産土神也。宮寺に十一面観音を安置す」とある。

明治5年に村社に列格し、明治40年、石川村大字東山の村社・菅原神社、大伴村大字南大伴の村社・降旗神社を合祀した。

・画像はウイキとyahoo地図より


16442.2月8日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月08日(水) 05時35分
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★「磐船大神社」ウイキより

磐船大神社(いわふねだいじんじゃ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある神社。

神木の栂(とが)にちなみ、栂の宮(とがのみや、「樛宮」とも書く)とも呼ばれる。境内には、舟の形をした岩が48個あるといわれており、磐船、浪石、燈明岩などの巨岩・奇岩を見ることができる。磐船神社ともいう。

■由緒

旧事記天孫本記に「饒速日命(にぎはやひのみこと)十種のみたからを奉じ、天磐船に乗りて河内国河上の哮峰(たけるがみね)に天降り給う」とあり、これに由来すると思われ、古い時代は山を御神体として崇めてきた。

・上記の文を読んでやっとわかったことがある。崇徳天皇に興味を抱いてからずっと不思議に思っていたこと。

・「なぜ天皇の名前に祟る(たたる)という文字が付いているのだろう」と。

・崇徳院をはじめ実質的初代天王崇神天皇、崇峻天皇というひともいなかったかなぁ・・つまり少なからずいる。

・さらに言われていることは「崇」の付く天皇は悲劇の道をたどることが多かったとも。

・なぜ「祟る」なの?と思っていたが、違うんだ!「崇める(あがめる)」なんだねぇ・・やっとわかったよ。

江戸時代、高貴寺の慈雲尊者が、葛城神道をひろめるにあたり、道場として社殿を建立した。

明治初年、神仏分離により、高貴寺と分離され、磐船大神社となった。

・それにしても岩がごろんごろんとたくさんあるところによくも神社を建てたことよ。


16441.うちのお雛様 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月08日(水) 04時52分
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年に一度のお目見え。

今年はマトリョーシカの家族も一緒でにぎやかやね。


16440.2月7日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月07日(火) 06時58分
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★「顕証寺 (河南町)」:ウイキより

顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府南河内郡河南町大字大ケ塚にある浄土真宗本願寺派の寺院。

山号は「近松山」。「大ケ塚御坊」とも。 河南町北部、大ケ塚の高台の上に、寺を中心にして周囲に寺内町を形成している。現在もその痕跡をとどめている。

・あり?たしかななふく様のお寺も顕証寺だったよなぁ・・ともいましたが、それは八尾市の顕証寺でした。

■歴史

大ケ塚寺内町(だいがつかじないまち)は、鎌倉時代末期、念仏宗第7世法明が、当地に念仏道場を開き、布教をはじめたことに端を発する。

南北朝時代や戦国時代には大ケ塚周辺で合戦が繰り広げられたが、そのような状況下で、念仏宗の寺院を中心に寺内町が形成されていく。

元亀3年(1573年)、本願寺11世顕如が、大ケ塚に道場を開基し、「大ケ塚総道場」と称する。

これが現在の大ケ塚御坊顕証寺のはじまりとなる。

当時この地は柴田勝家に属し、柴田家の菩提寺とされていた。

のちに豊臣秀吉がこの地に城を築こうとし、寺をとり壊したが、築城は失敗に終わる。

・むちゃしよんな。

正保3年(1645年)、本堂を再建する。

安永9年(1780年)、火事で全焼する。

・壊されたり、焼けたりたいへんだったねぇ。

寛政6年(1794年)、現在の本堂が建立される。建築面積は、584平方メートルあり、建築に25年の歳月を要した。

・結構な年月がかけられたんだねぇ。

■行事

「八朔法要」(はっさくほうよう)と「八朔市」(はっさくいち)が伝統行事として顕証寺と寺内町に伝わっている。

元禄年代に、京都御所の皇室から下贈された灯籠人形を本堂に飾ったところ、人々が次々に拝観に訪れたため、顕証寺周辺には自然と出店も出るようになり、八朔市が形成され現在に至っている。

・ふふ、皇室のちからという訳でしょうか。

・ところで、これも前に調べたことだが、(何度調べても覚えられん!)寺内町というのは寺を中心にした自治地区のこと。

今回ハハーンとやっとわかったことは、周りを濠や土塀で囲った守りの固い閉鎖的自治地区のことだろうということ。

だから、寺にお参りに来る人たちを相手に商業的に発展した門前町とは決定的に違う。

いまごろわかったヤツ!

・画像はウイキとyahoo地図より

・この寺は高貴という名前のわりにうらぶれていた前回のお寺とは対照的になんだか生き生きしているように感じさせてもらえる寺である。

・やはり寺内町まで作るほどのつわものたちがたくさんいて、寺を盛り立ててきたんだろうな。


16439.また本が 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月06日(月) 18時49分
Original Size: 420 x 313, 18KB

たくさんやってきました☆

うれしいなあ・・

三丁目の夕日シリーズと和田はつ子氏作の「鶴亀繁盛期シリーズ」と

「いねむり磐音シリーズ」の新刊。

分厚いベールをかけています。


16438.2月6日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月06日(月) 05時48分
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★「高貴寺」ウイキより

高貴寺(こうきじ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は神下山。

開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。

河内高貴寺縁起によると、役行者が草創した二十八箇所の修験霊場のひとつで、古くは底筒男命が降臨した地として、神下山香花寺と称した。

弘仁年間に、空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。

・ここで名前が変わったんだね。

南北朝時代に、南朝の後醍醐天皇より北朝軍調伏の祈祷を命じられるなど南朝側についたが、元弘元年(1331年)の兵火により焼失した。

・南北朝時代はどっちにつくかで運命が決まっていっただろうなぁ・・

翌年に金堂が再建され、寺門六坊も復興したが、次第に衰微していった。

安永5年(1776年)に慈雲尊者飲光が入寺し、大和郡山藩主柳沢保光の帰依・支援を受け、堂舎を整備し、当寺を真言律と梵学修行道場とし、戒壇を設けて正法律の本山とした。

明治維新期の神仏分離により、磐船神社が分離されたが、堂舎は難を逃れた。

・それまでは神社もお寺も一緒にあったということなのだろうか。

現在、堂舎として、金堂、講堂、開山堂、学寮があり、奥院には弘法大師御影堂、慈雲の墓、後桃園天皇の御実母の開明門院御髪奉安塔、柳沢保光(尭山)の遺髪碑がある。

また、慈雲筆の梵学津梁一千巻を所蔵する。

・うへー!一千巻!何が書いてるのだろう。

明治期の女流歌人、石上露子の没後50年を記念し、命日に当たる2009年10月8日に歌碑除幕式が行われた。

・急に石上露子と出てこられても・・その人はウイキに載っていない。

・画像はウイキとyahoo地図より


16436.2月5日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月05日(日) 10時32分
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空き時間(待ち時間)ができました。

★「弘川寺」:ウイキより

弘川寺(ひろかわでら)は、大阪府南河内郡河南町弘川にある仏教寺院で、真言宗醍醐派の準別格本山である。山号は竜池山。本尊は薬師如来。

665年、役小角によって創建されたと伝えられ、676年にはこの寺で祈雨法が修せられて天武天皇から山寺号が与えられたという。

平安時代の弘仁3年(812年)空海によって中興され、文治4年(1188年)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願している。

翌、文治5年(1189年)には空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。

寛正4年(1463年)兵火により焼失したが、江戸時代に入り寛延年間(1747年〜1750年)歌僧似雲がこの寺を訪れ、西行堂を建立している。

ーーーーー

楽しみにしていた人「西行法師」がでてきましたっ☆

ウイキで調べてみましょう。

ーーー
待ち人来たりでここで頓挫。



16437.佐藤義清(のりきよ)(後の西行)の出家
名前:J-Medic    日付:02月05日(日) 14時30分
http://www.intweb.co.jp/saigyou/syukke3.htm

この↑サイトを読むとかなり納得します。

私がごちゃごちゃ書くのはやめておきます。

今年の大河ドラマ平清盛ではその佐藤義清さんがどこまで描かれるか楽しみ。

役者さんが彼だからチョイ役ではなと思うのだが。期待しすぎか・・

あと崇徳天皇と義清さんとのかかわりもTVで表現してくれるとうれしいのだが。

16435.本日の按図索駿は 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月05日(日) 07時59分
時間を作り出すことができて、エネルギーがあればやりますが、

明日二日分てなことになりかねないなと思っています。

16434.2月4日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月04日(土) 06時23分
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★「金山古墳」:ウイキより

金山古墳(かなやまこふん)は、大阪府南河内郡河南町芹生谷(せるたに)に存在する古墳であり、全国的に珍しい双円墳。

国の史跡に指定されている。

墳丘の長さ85.8メートル、周濠を含んだ総長約104メートル、南丘直径55.4メートル・高さ9.4メートル、北丘直径38.6メートル・高さ6.8メートルの双円墳(瓢形双円墳)。

北丘は2段に、南丘は3段に築かれており、周囲には周濠がめぐらされている。

また、各段の間と墳頂部の平坦な部分には敷石が敷かれていた。

北丘の横穴式石室内の玄室と羨道には、凝灰岩をくり抜いて作られた家形石棺が2個置かれている。

合葬では通常、玄室に石棺を並べるが、金山古墳では、玄室に先に納められていた石棺が巨大であったため、合葬する際にもう1個の石棺をやむなく羨道部に置いたと解されている。

・なんと・・そんなこともあるんだ・・

なお、石棺の実物大模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されている。

石室の全長は16メートル、そのうち玄室は長さ3.8メートル・幅2.48メートル・高さ2.84メートル、羨道は長さ6.26メートル・幅1.72メートル・高さは1.94メートルである。

石室や石棺の中は盗掘にあっており、1946年の発掘調査では石室・石棺の内外から、銀環(ぎんかん)2、瑠璃玉(るりだま)1、鉄製帯金具3、鉄刀2振り分の破片、鉄刀子(てつとうす)1、鉄鏃(てつぞく)十数本、馬具、土師器坏(はじきつき)、須恵器高坏(すえきたかつき)、壺などが出土した。また、1993年の発掘調査では、須恵器子持ち器台、壺が出土した。

南丘にも石室の存在が確認されているが、未調査である。

双円墳とは、2基の円墳を連接した形のものをいうが、全国的には珍しく、他には東大阪市の夫婦塚古墳、瓢箪山古墳が知られている。

また、朝鮮の新羅の都であった慶州に多く見られることから、渡来人との関係も考えられている。

出土した土器や、石室・石棺の形から、6世紀末から7世紀初頭の築造と考えられている。

・聖徳太子のいたころから、大化の改新のあたりか・・

1991年2月15日に国の史跡に指定されている。

かつて濠面は水田となり、墳丘には民家が建てられていたが、1995年に「史跡金山古墳公園」として整備された際にそれらは撤去されている。

・代わりの土地をもらったのだろうねぇ。当然。

・画像はウイキ、yahoo地図より


16432.2月 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月03日(金) 06時29分
Original Size: 393 x 612, 39KB Original Size: 524 x 374, 84KB

★「近つ飛鳥風土記の丘(ちかつあすかふどきのおか)」

このサイトより

http://www.kintetsu.co.jp/spot/spot_info/spot0000057.html

河南町北部の丘陵地帯に広がる一須賀古墳群を中心に造られた公園。ウメの名所

近つ飛鳥とは、奈良の飛鳥(遠つ飛鳥)に対してつけれた古称。

古くから文化が栄え、その証しとなるのが河南町北部の丘陵地帯に広がる一須賀古墳群。

風土記の丘は古墳群の一画を大阪府が整備したもので、一帯には河内を治めた渡来人の豪族の墓とされている古墳時代後期(6〜7世紀)の古墳が250近く点在。

29haの園内には102基の古墳があり、うち40基が整備公開されている。古墳を巡る遊歩道や展望台も整備されている。

平成6年3月25日に「府立近つ飛鳥博物館」が開館された。
梅の名所で「大阪府立近つ飛鳥博物館」背後の丘陵に約140本が咲く。

ーーー

難波の宮から
●近い飛鳥が「近つ飛鳥」(大阪府南河内郡周辺)
●遠い飛鳥が「遠つ飛鳥」(いわゆる奈良県明日香村周辺です。)

ーーーー

http://sendo.fc2web.com/flame01/katudoukiroku/20060325naniwanomiya/naniwanomiya.htm

この↑ページもとても面白い。

・それにしても中央区のところで、「難波の宮(なにわのみや)」について調べたよな。。。もう忘れているヤツ。

・ところで、南北朝から、また飛鳥時代に逆戻りか・・

・難波の宮の時代(645年の大化の改新の少しあと)には、まーあっちこっちに宮を作りまくり。

・「ちったー尻を落ち着けたらどうなんでぃ」と江戸弁でいうとこうなるのか、じっとせん天皇さんやね!という感じ。

・庶民の労苦はいかばかりだったことだろう。

・難波の宮は港に近く外国との貿易などに都合が良かったようだ。

・大阪城の南に位置するのだが、つまりその辺まで海だったということか。

・画像はウイキとyahoo地図より



16433.タイトルが不完全でした。
名前:J-Medic    日付:02月03日(金) 08時21分
2月3日の按図索駿:河南町編

でした。

寝ぼけていたのだろうか。

16430.2月2日の按図索駿:河南町編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月02日(木) 07時20分
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★「河南町概略」ウイキより

河南町(かなんちょう)は、大阪府南河内地域に位置する町。

金剛・葛城山脈の西麓に広がる。

■歴史

1889年(明治22年)4月1日、石川郡石川村、白木村、河内村、中村が発足。

1896年(明治29年)4月1日、南河内郡が成立。

1956年(昭和31年)9月30日、石川村、白木村、河内村、中村が合併し、南河内郡河南町となる

町内に鉄道路線なし。

・画像はウイキとyahoo地図より



16431.Re: 2月2日の按図索駿:河南町編
名前:J-Medic    日付:02月02日(木) 07時21分
もう一つ図を入れたかったのですが、つながりにくくなっています。

また後で、入れます。

16429.2月1日の按図索駿:千早赤阪村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:02月01日(水) 06時24分
本日は言葉の意味調べをしてこの村を出ようと思う。

「地頭請」:地頭請(じとううけ)とは、鎌倉時代の地方の荘園支配の形態の一つ。

荘園領主と地頭が契約を取り交わし、毎年一定額の上納分を領主に納めることを条件として、地頭がその荘園の管理・支配・年貢の徴収を任されるという制度。

領主からみれば豊作・凶作の作柄によらず一定額の収入を確保でき、地頭側は不作時のリスクはあるものの上納額以外はすべて自分の収入となるという利点があった。

ちなみに「地頭」は

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。

「下地中分」:下地中分とは,荘園領主と地頭が下地つまり「荘園」を「折半」し,それぞれの領有権をみとめ,たがいに干渉しないとする方法です。

地頭請と内容は違いますが,地頭の荘園侵略に対するの解決方法の一つでした

「大番催促」:大犯三カ条は守護の権限のことですが、その中の一つである大番催促とは、守護が各国の御家人に対し、京都を警備してくれ〜と催促・指揮する権限のことです。
京都を警備するお役目のことを大番役といいます。
(山川の日本史用語集より)


「刈田狼藉」:中世日本において土地の知行権などを主張するために田の稲を実力行使で刈り取ることです。

ちなみに「中世日本」とは鎌倉室町時代のことらしい。

「守護大名」:室町時代,領主化した守護(しゅご)のこと。

もともと,幕府から軍事警察権をあたえられた守護が,しだいに任国(にんごく)内の武士と主従関係(しゅじゅうかんけい)をむすび,南北朝の争乱時代を通して地域的領主に成長したものである。

守護大名はあくまでも幕府の権力と荘園からの収入にたより,配下との主従関係も土地をなかだちにしないという弱点をもっていた。このため,応仁の乱以後、多くが没落していった。

「国衙領」:国衙領(こくがりょう)というのは「武蔵」とか「尾張」など各国に置かれた朝廷の領地で国司が管轄しました。

本来は全部公領であったのが荘園などが出来て貴族や社寺の後ろ盾で公領が減る中で特に国司や国府という各国に置かれた役所が手元に残った領地を編成して朝廷の領地にしたのです。

結局これも荘園を実際に管理していた武士が荘園を侵食していったように武士らに奪われました。

「苗字の地」

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/busi_myo.html

この↑サイトに詳しく載っている。興味のある方はごらんください。

「新恩」:直接的にこの言葉だけの検索はできなかったが、以下の文に「新恩」という言葉が「新恩給与」という形で出てくる。

御恩の具体的な内容は、主人が従者の所領支配を保障すること、又は新たな土地給与を行うことである。

前者は本領安堵(ほんりょうあんど)と呼ばれ、後者は新恩給与(しんおんきゅうよ)と呼ばれた。

鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿が御家人を地頭へ任命するという形で本領安堵・新恩給与、すなわち御恩がほどこされるようになった。

「ばさら」:ばさらとは、日本の中世、南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。

婆娑羅など幾つかの漢字表記があり、梵語(サンスクリット語)で「vajra = 金剛石(ダイヤモンド)」を意味するが意味の転訛は不明であるとされる。

身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。

足利直義主導の下に、室町幕府の基本方針として編まれた『建武式目』では、ばさらを禁止している。ばさらに対して批判的な古典『太平記』には、足利氏筆頭執事の高師直や、近江国(滋賀県)の守護大名の佐々木道誉(高氏)、美濃国(岐阜県)の守護大名の土岐頼遠などのばさら的な言動・行動が記されている。これらの大名は「ばさら大名」と呼称されている。

・軽んじつつも、まねするということはうらやましいんやね。

「二条河原落書」:二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、室町幕府問注所執事の町野氏に伝わる『建武年間記(建武記)』に収録されている文である。

88節に渡り、建武の新政当時の混乱する政治・社会を批判、風刺した七五調の文書。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政が開始されてから程なく、1334年(建武元年)8月に建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原(鴨川流域のうち、現在の京都市中京区二条大橋付近)に掲げられたとされる落書(政治や社会などを批判した文)で、写本として現代にも伝わる。

編者は不詳、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、京童であるとも言われているが、中国の『書経』・『説苑』由来と見られる文言や今様の尽くし歌風の七五調の要素を持つ一種の詩をかたどった文書であり、漢詩や和歌に精通している人物が書いたことは間違いないと思われる。

また、後嵯峨院が治天の君の時代であった正元2年(1260年)に院の御所近くに掲げられた『正元二年院落書』を意識したとする見方もある。

ただし、内容を単に「建武政権批判」とするのは、事実と相違しており、混乱期の中で成長してきた武士や民衆の台頭や彼らが生み出した新たな文化や風習(連歌・田楽・茶寄合など)に対しても強い批判を示しており、落書の編者は「京童の代弁者」を装いながらも、実際には必ずしも民衆の不満の代弁者であった訳ではない。

・自分以外はみなクズだと思いあがった人間のなせる業だったのだろうか。

・正々堂々としないヤツ。

ちなみに「京童」は

京都の若者たち。何かといえば騒ぎ出すので、口やかましい者の代表として用いる。きょうわらわ。きょうわらべ。きょうわらんべ。

・ウィキペディア、ネット上の辞書、知恵袋などからいただきました。

・この中世日本という時代、わかりかけたらまたわからんようになったり・・まだまだしっかりわかったとは言い難い。

・またほかの場所の按図索駿でも、いやでもお目にかかるだろうから、

千早赤阪村とは本日でおさらば。

16428.1月31日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月31日(火) 07時23分
★「南北朝とはなんぞや」のつづき:ウイキより

■土地支配の変化

鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち皇室・公家や寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。

鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士が、地頭請や下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになる。

・「地頭請」「下地中分」:ワカラン言葉が出てくる。

この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。

・お、こっちは「守護請」か。

また、鎌倉時代の守護の権限であった大犯三ヶ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。

これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。

守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、守護大名と呼ばれるようになる。

・「このような武士」って?

・守護大名とはそういうことか。でもはっきりとはワカットラン。

南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。

なお、荘園公領制が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の太閤検地によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていたのである。

・「荘園公領制」とは?文脈では「貴族が持っていた」という意味なんじゃないかと思うが、それを「公領制」っていうの??

・「私有地」だったんじゃないの?

・もしくは「朝廷の持ち物」という意味?

戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。

また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。

これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。

・「苗字の地」、「新恩」:??

後年

近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。

・どっちでもいいんじゃないの?もとは兄弟なんだから。

明治時代には皇室は南朝が正統とされ、文部省は国定教科書で「吉野朝時代」の用語を使うよう命じた。

・ああ、そうか、北朝は絶えちゃったからね。

東京大学史料編纂所は『大日本史料』で「南北朝時代」を引き続き使用したが、1937年(昭和12年)、皇国史観で知られる平泉澄や宮内省の芝葛盛らの批判を受けた。

所内の協議の結果、辻善之助所長の判断で、南北朝時代の第六編は編纂は続けるが、出版は中断することになった。

第二次世界大戦後、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。

『大日本史料』出版も再開された。

・まぎれもない事実なのだろうからね。

■文化・社会風潮

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

しかし政治的混乱が大きい時代でもあったので、ばさらや二条河原落書など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

・「ばさら」「二条河原落書」:後者は一昨年調べたはず。この忘れん坊が!

はあぁ・・・ワカラン言葉がいっぱいある。

それにしても千早赤坂村にいつまでもぐずぐずしていては村の皆さんに蹴り出されそう。

なんとかあと一日で千早赤阪村とはおさらばしよう。

16427.1月30日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月30日(月) 08時56分
・なんと昨日すっかり忘れていました。

★「南北朝とはなんぞや」のつづき:ウイキより

■九州の情勢と南北朝合一まで

九州地方では、多々良浜の戦いで足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、尊氏が残した一色範氏や仁木義長などの勢力が争いを続けていた。

南朝勢力を強化するために、後醍醐天皇の皇子である懐良親王が征西将軍として派遣され、筑後川の戦い(大保原の戦い)では、南朝方の懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸らと北朝方の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら両軍合わせて約10万人が戦ったとされる。

この戦いに敗れた北朝方は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。

・10年とは短い期間やねぇ・・

また観応の擾乱が起こると足利直冬が加わり、三勢力が抗争する鼎立(ていりつ)状態となる。

この頃、朝鮮半島や中国の沿岸などで倭寇(前期倭寇と呼ばれる)と呼ばれる海上集団が活動し始めており、懐良親王は倭寇の取り締まりを条件に明朝から冊封(さくほう)を受け、「日本国王」としての権威で勢力を強める。

ーーーーさくほうの意味を忘れたのでまた調べた。yahoo知恵袋より

中国の周辺国の王が、中国皇帝に貢物を捧げて、皇帝の名の下にその国の王様であるとお墨付きを貰う事です。
例えれば、政府に税金を納めて知事の免状を貰う様な物です。

ーーー

室町幕府は今川貞世を九州へ派遣して南朝勢力を鎮圧し、直冬も幕府に屈服したため、足利義満の代には九州も幕府の支配するところとなった。

その後、足利義満が新たに冊封されて「日本国王」となる。

ーーーー上記と同じyahpp知恵袋より

一時、足利義満が貿易の為に朝廷に無断で宋国の皇帝に朝貢して、日本国王の印璽を貰ったりはしてますが。

ーーー

・それだけ九州というところは魅力的なところだったんだねぇ

弘和/永徳・元中/至徳年間に入ると、南朝は動乱初期からその支えとして活躍してきた懐良親王、北畠顕能、宗良親王の相次ぐ死と、対北朝強硬路線を通していた長慶天皇の譲位により、衰退を極める事となったが、

明徳年間の足利義満による相次ぐ有力守護大名勢力削減により、北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。

このような情勢の中で1392年(元中9年/明徳3年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立(てつりつ)と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすること(実際には国衙領はわずかしかなかった)を条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)。

・こういう決め事ってひとり守らないヤツが出てくると戦争になる。

■後南朝

合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく

・はははやっぱりね。

持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。


彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した1428年(正長元年)以後、激化することとなる。

1443年(嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。

神璽ってなに?−−−「おしえてgoo」より

しん‐じ【神璽】
(シンシとも)
1.皇位のしるし。古くは護身の鏡と剣で、のち祭祀の対象となる。八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)とをいい、のち八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を加えて三種の神器と称する。あまつしるし。
ーーーーーー


後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年(長禄元年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。

・えええ??じゃどうなったの??

・・・つづく・・

16426.1月28日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月28日(土) 06時47分
★「南北朝とはなんぞや」のつづき

■南北朝成立までのつづき

1333年(元弘3年/正慶2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発した。

これに応えた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。

しかし政局の混乱が続き、また恩賞の不公平により武士階級の支持を得ることはできなかった。

中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政から離反すると、不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。

後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じる。

新田軍は箱根・竹ノ下の戦いでは敗北し尊氏らは京都へ入るが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり駆逐された。

尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征する。

迎え撃つ宮方は新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れ、比叡山に篭った。

尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。

・尊氏というひとは、野望達成のためならば、相手に謝ることも平気で、相手をおだてる、といった手管を臆面もなく使う人だったんだな。

その上で建武式目を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開く。

後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣する。

・後醍醐天皇もさるもの、渡したものは偽物だなんてね。本当でも、嘘でも、「・・・(あきれてものが言えない)」というひとです


・うわぁ・・なんか、文字通りどろどろの泥仕合。

・こんなことばかりやっていてはろくな政治はできまい。

・庶民は自分の生活は自分で守らねばならないことを思い知ったことだろうな。

・なんか今の国会を見ていると、「似てるな」という感じがする。

・所詮月々の小遣いが4億円てな人たちの集まりがやいのやいのと勢力争いをしているだけのことじゃないかと思える。

■観応の擾乱と南朝勢力の衰微

南朝方は名和長年・結城親光・千種忠顕のほか、北畠顕家・新田義貞らが1338年(延元3年/暦応元年)までに次々と戦死し、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。

1348年(正平3年/貞和4年)には四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行・楠木正時兄弟が足利方の高師直に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。

しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。

政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。

山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。

後村上天皇は南朝方の住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮(大阪市住吉区)とする。

・はぁ・・しんど。読むだけでしんどい。あっちこっち喧嘩しすぎ。

・なまじ武器を携帯する武士たちの喧嘩だから、すぐに戦争になる。

・やっとられん。

(この「やっとられん」で思い出したが、昨日初めてパソコン教室にやってきた人と、イラストレーターについて、「あーでもない」「こーでもない」とやっていて、思わず「また、この色に戻ってしまうのか・・やっとられんなぁ」とつぶやいたら、それを聞いた新人さん「過激な言葉を使われるんですね」と私におっしゃった。「は?」と驚いた私。イラストレーターに向かって吐いた言葉で、しかも日常茶飯事使っている。奈良の人だからだろうか。これからも彼を驚かせることが多いように思うが・・耐えられるのだろうか、彼は。)

1351年(正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏し、年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。

・ははは、またや。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

・想定内だっただろうね。

南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。

・ははは、本物やったんやね。

義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。

このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。

南朝の北畠親房は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した常陸国小田城にて南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆する。

・ははーん・・この書物があるから、南朝正統性主張歴史家がいるんやね。何を書いてあるのか知らんけど。

1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇が崩御すると親房が南朝の指導的人物となるが、親房が1354年(正平9年/文和3年)に死去すると南朝はまた衰微し、幕府内での抗争で失脚した細川清氏が楠木正儀らと南朝に帰順して一時は京都を占拠するものの1367年(正平22年/貞治6年)に敗れ、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなり、足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども帰服する。

・細川や山名の名前が見られる。応仁の乱の火種やね。

義詮の死後は、足利幕府は幼い将軍足利義満を補佐した管領細川頼之の指導により、南朝方の中心的武将であった楠木正儀(正成の子)を帰順させるなど対南朝工作を行い、幕府体制を確立する。

・まだ楠木性が存続しているんやね。

・やれ、しんどい。上記の文章の中にも調べたい文言はいっぱいるが、ひとまず、本日はこれまで。

つづく

16425.1月27日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月27日(金) 06時56分
★「南北朝とはなんぞや」の続き:ウイキより

■大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。

第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である。

亀山・後宇多両天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事からこの名称が付けられた。

■持明院統

持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。

基頼の孫持明院基家の娘陳子(のぶこ)は守貞親王の妃になり、承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった(守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称した)。

そして、後堀河天皇は譲位後、持明院邸内を仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院邸内に住んだ。これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称された。

・うう・・・頭がくらくらとなってきた。訳ワカラン。


http://kyotohotelsearch.com/blog/2010/06/08/ryototetsuritsu/

・↑このサイトを読んで助かった。諸悪の根源御嵯峨天皇の事がよく分かりました。(まあ、このサイトの文章が真実に近いとするならですが。)


ーーー

仙洞御所(せんとうごしょ)とは、退位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいい「せんどう」とも読まれる[要出典]。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。

ーーー
・もう一つわからんようになってきたこと。

・元弘の変と承久の乱との関係

・元弘の変は1331年から始まる。(いつ終わったという?)後醍醐天皇

・承久の乱は1221年後鳥羽上皇

・そうか・・・100年以上も違うんだ。

・後鳥羽と後醍醐で混乱していたんだ。

・そして今回のテーマの根源は後嵯峨天皇

・ややこしい・・・歴史家から言わせれば「ぜんぜんちゃうやん」と言うことになるのだろうが。

・私が歴史の教師だったら、もっと人間臭く生徒たちに教えたことだろうな。

・私が習った日本史の先生はなんだか板書ばかりしていたなという印象がある。

・「こらこら教師のせいにするな」という別の自分の声も聞こえるが。

・はぁ、疲れました。また続く。

16423.1月26日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月26日(木) 06時28分
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★「千早赤阪村立郷土資料館」ウイキより

千早赤阪村立郷土資料館(ちはやあかさかそんりつきょうどしりょうかん)は大阪府南河内郡千早赤阪村にある郷土資料館。

千早赤阪村立郷土資料館は、千早赤阪村を中心とした歴史、考古、民族に関する収集、保管、展示するために1986年(昭和61年)に開館した。

資料館の1階は、古代から近代にかけての出土物や歴史資料を、2階は民族資料を展示している。

・ウイキからこの資料館へのリンクは外れているようだが、そのサイトは現存するのだろうな。(検索したらいいのだが、その気がいまいちない。おそらく楠木正成に終始するのだろうということが分かっているからか?)

■主な展示物

千早赤阪村の北部には、御旅所古墳、御旅所北古墳、森屋古墳群があり、発掘調査より出土した土器や銅鏡が展示してある。

また千早赤阪村は、千早城、上赤坂城、下赤坂城など楠木正成が築いた山城がある。これらの発掘調査の写真パネルや出土物、千早城の模型がある。

2階は江戸時代末から昭和にかけた凍豆腐の作製器具や林業の用具が展示している。

・画像はウイキとyahoo地図



16424.Re: 1月26日の按図索駿:千早赤坂村編
名前:J-Medic    日付:01月26日(木) 06時59分
もうひとつ

★「金剛生駒紀泉国定公園」ウイキより

金剛生駒紀泉国定公園(こんごういこまきせんこくていこうえん)は、奈良県・大阪府の府県境の生駒山地・金剛山地一帯と、大阪府・和歌山県の府県境の和泉山脈一帯からなる国定公園のことである。

1958年(昭和33年)4月10日に金剛生駒国定公園(こんごういこまこくていこうえん)として指定(当時の面積は15,624ha)。

1996年(平成8年)10月2日に和泉山脈一帯を編入し、名称も金剛生駒紀泉国定公園(こんごういこまきせんこくていこうえん)に変更された。

都心に近く自然が多く残っていることや、自然公園が多くあることなどにより、ハイキングなどで訪れる人も多い。

・この項目は千早赤坂村に限られたものではないので、このくらいにしておく。

ーーーー

それよりも千早赤坂村を去る前にはっきりわかっておきたいことがある。

なぜ南北朝などという出来事が起こったのか。

たんに鎌倉時代から室町時代への移行期にあった時代、などというむなしい(苦々しい:意味をよく把握していなかったので覚えられないこと甚だしかった学生時代。)記憶を払拭したいからなのだが。

またウイキペディアのお世話になることにしましょうか。

★「南北朝時代 (日本)」(日本)とあるのは中国にも同名の時代があるかららしい。

一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。

・元弘の変(乱ともいう)は、あれだな、後鳥羽天皇の討伐の呼びかけに応じた武士たちが鎌倉幕府を倒すという・・

・このときは足利尊氏も楠木正成も味方だった。

・そのあとの建武の新政がいけなかったんだよな。武士を冷遇しすぎ。

・それでも南朝として離反した足利尊氏以外は後鳥羽はんに従うのだから、大したものというか、なんというか・・

正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により天皇王朝が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を指し、室町時代の初期に当たる。

・あやしくなってきた・・・突如現れた光明天皇ってだれ?

・践祚の意味は?

ーーーウイキ

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。

ーーー

・これ前にも書かなかったっけ・・なかなか覚えられない。

この時代の天皇王朝には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの王朝が存在し、それぞれ正統性を主張した。南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称する(→南北朝正閏論)。

■南北朝成立まで

鎌倉時代末にあたる寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の退位後に皇室は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂してしまった。

そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められていた。

・あ・あかん

>大覚寺統と持明院統に分裂して

というあたり、もっと調べないと。

・次回に続く・・

16422.1月25日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月25日(水) 06時35分
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★「上赤坂城」ウイキより

上赤坂城(かみあかさかじょう)は、日本の城。所在地は大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪。国の史跡に指定されている。 「上赤阪城」と書くこともある。

別名、楠木城。小根田城、桐山城とも言う。楠木七城の一つ。

・なんでそんなにいろいろな呼び名を持つ?

鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の本城である。

昭和9年(1934年)3月13日、国の史跡に指定された。

現在、遺構として、等高線に沿った横堀と曲輪が認められる。

これは、戦国期に改修を受けたものだと考えられる。

元弘の乱の主要な舞台となった。

元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いたが当城が楠木氏の本城となり、幕府軍に対した。

翌元弘3年(1333年)、上赤坂城も落城し、正成は千早城に転じてさらに抗戦を続け、幕府軍を苦しめた。

・この元弘の乱で、後醍醐天皇の倒幕の目論見が達成されたのに、あとの処置がいけません。

・思うに取り巻きが多い人ほど、リーダーシップはとれないんだなとわかる。

・自分が出向いていろいろなことを見て回らないと。

・それを思うと崇神天皇はよく分かっていた人だなと思う。

・そして、彼こそが初代天皇だと言いたい人が多い理由も。

■歴史

周辺の金剛山の尾根上には下赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。

この城塞群は南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年(正平15年、1360年)に北朝方の手に落ちた。

・楠木正成と言う人は(一代では無理だったかも)突貫工事の城をずいぶん建てた人だったんだねぇ・・

・「河内国の悪党」と冠されるゆえんは?

ーーーウイキより

日本の歴史においては中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を悪党と呼んでいる

ーーーー

・ははは、傑作やねぇ。悪党大いに結構!

・画像はウイキより


16421.1月24日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月24日(火) 07時16分
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★「下赤坂城」ウイキより

下赤坂城(しもあかさかじょう)は、日本の城。所在地は大阪府南河内郡千早赤阪村森屋。国の史跡に指定されている。

鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。標高185.7メートル、比高61.4メートル。遺構はほとんど残っていない。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったとされる。千早赤阪中学校の裏手に石碑が残り、日本の棚田百選にも選ばれた美しい棚田の風景が広がる。

昭和9年(1934年)3月13日、「赤阪城跡」として国の史跡に指定された。楠木七城の一つ。

楠木七城って?−−−−ウイキより

楠木七城(くすのきしちじょう)は、後醍醐天皇の呼び掛けに応じた楠木正成が鎌倉幕府への抵抗の拠点とするために築城した城砦群である。現在の大阪府南河内郡千早赤阪村・富田林市・河内長野市にかけて城跡が残る。

千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七つの城を言う。

ーーーー

■歴史

元弘の乱の主要な舞台となった。

元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵。

熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城、正成は金剛山に潜伏した。

翌元弘2年(1332年)になると、正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、
倒幕の気運が高まったとされる。

南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年(正平15年、1360年)に落城した。

周辺の金剛山の尾根上には上赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。一連の戦いの模様は『太平記』に記述されている。

・画像はウイキより


16420.1月23日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月23日(月) 06時24分
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★「千早神社」ウイキより

千早神社(ちはやじんじゃ)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にある神社である。通称は楠社とも呼ばれている。

千早神社は千早城の本丸にあり、もとは千早城の八幡大菩薩を祀って鎮守として創建したものであったが、後に楠木正成、楠木正行を合祀した。

1874年(明治7年)に社殿を再建、1879年(明治12年)に祠を建て千早神社となる。

1907年(明治40年)に周辺にあった吉年の金峯神社、小吹の八坂神社、千早の坂本神社、中津神社を合祀した。

千早神社は千早城の本丸にあり、もとは千早城の八幡大菩薩を祀って鎮守として創建したものであったが、後に楠木正成、楠木正行を合祀した。

1874年(明治7年)に社殿を再建、1879年(明治12年)に祠を建て千早神社となる。

1907年(明治40年)に周辺にあった吉年の金峯神社、小吹の八坂神社、千早の坂本神社、中津神社を合祀した。

・さて明日は千早城について。

・楠木正成にどっぷりつかりましょうか。

・画像はウイキとyahoo地図より


16419.1月22日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月22日(日) 09時15分
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★「建水分神社」ウイキより

建水分神社(たけみくまりじんじゃ)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分(すいぶん)にある神社である。

通称水分神社(すいぶんじんじゃ)。水分大明神、上水分社(うえのすいぶんのやしろ)とも称する。式内社で、旧社格は府社。

・なんと難しい正式名なんだろう。「水分」で「みくまり」と読むのか?

古来より金剛山鎮守として、また楠木氏の氏神として崇敬された。

・しーちゃんのよく行かれる金剛山とは千早赤阪村にあったのか・・・

■由緒

社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。

・出た!実質初代天王崇神天皇!精力的に動き回った人のようだ。

・「よきにはからえ」ではなくね。好感が持てる。

延喜式神名帳に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されている。

「上水分社」の呼称は、美具久留御魂神社(富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。

・南北朝時代に焼けたところも多いね。

・南北朝時代とはいったい何を争ったの????を調べねばなるまいな。

・だが、これには時間がかかりそうだから、次回意欲が出てきたときに譲ろう。

元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃した。

このため建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。

延元2年(1337年)4月27日、最高位である正一位の神階を授けられた。

中世、織田信長軍の河内国攻略の際に社領を没収され一時衰退するが、豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧された。

1873年(明治6年)の社格制定の際に付近18ヵ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列格した。

1907年(明治40年)に神饌幣帛供進社に指定され、氏子地域内の17神社を合祀し、1913年(大正2年)に府社に昇格した。

・画像は「建水分神社」のサイトの物と、yahoo地図より


16417.1月21日の按図索駿:千早赤坂村編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月21日(土) 06時42分
・大阪府で唯一の「村」。ここへ来たかった!やっと来れたという感じ。

★「千早赤阪村概要」ウイキより

千早赤阪村(ちはやあかさかむら)は、大阪府南河内地域に位置する村。

大阪府唯一の村、また、楠木正成の出身地として知られ、役行者が修行したと言われる金剛山や棚田などの自然に囲まれた、歴史と観光の村である。

2006年6月時点で、大阪府下全ての市町村中、人口が最も少ない(5867人:2011年現在)。

尚、村内にはコンビニが一つも無い。

・これは2006年のはなしだろうから、今もコンビニはないのかどうか・・それはわからない。

歴史

1889年(明治22年)4月1日、町村制施行により、石川郡赤阪村、千早村が発足。

赤阪村 : 森屋村・水分村・桐山村・二河原辺村・川野辺村が合併。

千早村 : 東阪村・吉年村・中津原村・小吹村・千早村が合併。

1896年(明治29年)4月1日、南河内郡が成立。

1956年(昭和31年)9月30日、赤阪村と千早村が合併し、南河内郡千早赤阪村となる。

2002年(平成14年)から、富田林市、太子町、河南町との間で合併協議がなされたが、合併方式をめぐって対立し解散した。

2008年(平成20年)2月、河内長野市との法定協議会設置議案を村議会が可決。編入合併の予定で、合併が実現すれば大阪府から村が消滅することになっていた。

しかし翌年(2009年(平成21年))、村議会による河内長野市への編入合併に関する議案に対して反対意見が多数。

結果、河内長野への編入合併は白紙撤回され、府内から村が消滅することはひとまず回避される見通し。

ーーー↓千早赤坂村のホームページより

■村長さんのあいさつ

ようこそ
「一冊の絵本のような村」千早赤阪村へ

 千早赤阪村のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。

 千早赤阪村は、大阪府の南東部に位置し、金剛・葛城山脈の主峰金剛山(標高1,125m)と「太平記」に登場する武将楠木正成生誕の地として有名な、自然と歴史の香り高い、大阪府唯一の村です。本村には、時代が求める有形無形の資源が今なお豊かに残っており、これらの貴重な資源を生かし、村を更に活性化したいと思っています。

 このホームページを通じて、千早赤阪村の素晴らしさを知っていただき、より多くのみなさんが千早赤阪村を訪れていただくことを期待しています。

千早赤阪村長 松本 昌親

ーーーーーー

・画像を入れるのを忘れたので、下に入れる。

 



16418.Re: 1月21日の按図索駿:千早赤坂村編
名前:J-Medic    日付:01月21日(土) 07時00分
Original Size: 539 x 355, 53KB Original Size: 592 x 652, 74KB

画像を入れる前に何かの拍子でエンターを押したら、アップされてしまった。

どうもいけません。

画像はウイキと千早赤坂村のサイトより。

ーーー

長男の高校の時の友人に千早赤阪村から通ってきている若者がいた。

その頃は私はそこが一体どこにあるのかしらなかった。

大阪府で唯一の村が千早赤阪村だということは知っていたが。

その学校は松原市にあるわけだから、毎日いくつかの市を通って通学していたわけだ、と今ならわかる。

どれぐらいの時間をかけて通学していたのだろう。

その人は東京大学に入学した・・と、ここまでは知っている。

今はどういう社会人になっているのだろう。

故郷に帰ることはあるのか、年に何度ぐらい?などといろいろなことを考えてしまう。

若いときに苦労するのはいいもんやなと思う。苦労を苦労とは思わない頃に。

そしてトシとってから、ボケ防止のための努力を惜しまないのも、これまたいいもんだ、なんてね。


16416.1月20日の按図索駿:富田林市編 返信  引用 
名前:J-Medic    日付:01月20日(金) 06時00分
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★「富田林農業公園サバーファーム」

このサイト↓より

http://www.savor-farm.or.jp/index.html

広さ20ha・甲子園球場5個分の広大な敷地のサバーファーム。

四季折々に咲き乱れる可憐な花々と、丁寧に育てた旬の果物、野菜たちが皆さまをお待ちしています。

花の香りに包まれてたっぷり遊んだあとは、朝摘フルーツのフレッシュジュースや、採れたて野菜を使ったバーベキューに舌鼓をうつもよし、広々芝生の上でお弁当を広げるもよし。

旬野菜を使ったお料理やクラフト工作などの体験教室や、餅つき大会などのイベントも開催しています。

お土産はもちろん自分で収穫した果物や野菜たち。

サバーファームは、1年中大地の恵みを実体験できる農業公園です。

・どこがやっているのか知らないが、維持管理が大変だろうな。

■サバーファームの名前のいわれ

サバーファームのサバー(Savor)は、「味、風味、香り」という意味。
ファーム(Farm)はもちろん、「農場、農園」のことです。
おいしく、香り豊かな自然の宝庫----そんな願いをこめています。

・ということらしいですが、意味はいいのですが、読みがどうもいけません。

・サバーというよりセイバーでしょう??

・なんだか「サマーファーム」を鼻の詰まったひとが言っているようなひびき。

・ならばいっそのこと「風の味を感じる農園」とかなんとか、まっとうな日本語の名前にすりゃあいいんじゃないの?と思ってしまう。

・画像は上記のサイトとyahoo地図より


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