★「太子町(大阪府)」ウイキより・(大阪府)とあるのは、兵庫県にもあるかららしい。太子町(たいしちょう)は、大阪府南河内地域に位置する町。町の木はサクラで町の花はユリらしい。生駒・金剛山地の西麓にある。日本最古の国道といわれる竹内街道が通っている。89年(明治22年)4月1日、町村制施行により、石川郡磯長(しなが)村、山田村が発足。 磯長村 - 太子村、葉室村、春日村が合併。 山田村 - 山田村、畑村が合併。 1896年(明治29年)4月1日、南河内郡が成立。1956年(昭和31年)9月30日、磯長村と山田村が合併し、南河内郡太子町となる。・太子町になって56年か・・近鉄南大阪線が通っているが、町内には駅はない。最寄駅は同線の上ノ太子駅(羽曳野市)。・なんと、そういうところもあるんだ・・・なかなか興味深い街のようだ。これからたのしい時間を過ごせそう。・画像はウイキと太子町のサイトとyahoo地図より
★「鴨習太神社」ウイキより鴨習太神社(かもならいたじんじゃ)は、大阪府南河内郡河南町にある神社である。式内社で、旧社格は村社。主祭神は饒速日命・天照地照彦火明命・櫛玉命となっているが、いずれも饒速日命の別名である。一帯が物部氏の勢力圏であったことから物部氏の祖神・饒速日命を主祭神としたものであるが、・うわ!一須何神社の周辺は蘇我氏の末裔石川氏の勢力範囲だったよね・・・飛鳥時代にどっぷり浸かる感じがする。社名に「鴨」とあることから本来の祭神は賀茂氏に関する神であるとする説もある。・賀茂氏なんてあるんだ。 相殿に高皇産霊尊を祀る。■歴史創建の由緒は不詳である。延喜式神名帳に「河内国石川郡 鴨習太神社」と記載され小社に列しているが、後に衰退し、所在が不明となっていた。 現在の鴨習太神社は、明治時代まで「天満宮」と称し菅原道真を祀っていた神社である。万治3年(1660年)11月、附近にあった高皇産霊尊を祀る天神神山神社の社殿が暴風により破壊されたため、当社に合祀された。・なんか・・・とりあえずこうしとこか!という感じ?式内・鴨習太神社に比定され、現社名に改称し、主祭神を饒速日命に改めた。明治5年に村社に列格した。・画像はウイキとyahoo地図より・この神社は西隣の富田林市との境に近い、つまり河南町としては西の端に近いところにある。・河南町は位置関係を調べるのが難しかった。(過去形にしているのは本日で河南町とはおさらばするから。明日からはその北に隣接する太子町に行く。名前からして、飛鳥時代から抜け出せない雰囲気。)
★「一須何神社」ウイキより一須賀神社(いちすかじんじゃ、壹須何神社、壱須何神社)は、大阪府南河内郡河南町(旧石川村)にある神社である。延喜式神名帳に記載されている式内社で、旧社格は村社。当地は蘇我氏の末裔・石川朝臣の本拠地であり、『河内國式神私考』『渡会氏神名張考證』などでは、元は宗祖・蘇我石川宿禰を祀ったものであろうと記している。現在の祭神となったのは江戸時代初期とみられ、江戸時代には「天神」と称していた。『大日本神祇史』には「今俗伝市河明神」とある。・石川氏についてーーーーーウイキより主に、次の3系統の石川氏が存在する。 1.蘇我氏、蘇我倉山田石川麻呂系石川氏。 2.清和源氏、河内源氏源義時流石川氏。本項で詳述。 3.清和源氏、大和源氏源頼親流石川氏(陸奥石川氏)。 他に、備中の国人である石川氏がある(備中石川氏)。ーーーーー・上記のうち1番に匹敵するのがこの一須何神社■歴史創建の由緒は不詳であるが、一帯は石川朝臣の本拠地であり、また一須賀古墳群の一角であることから、元は古墳の上にあったものとみられる。 南北朝時代には、当地に南朝方の石川城が築かれ、当社も再三にわたり兵火を受けた。天正17年(1589年)、豊臣秀吉は石川郡代官伊藤加賀守秀盛を通して祈祷と境内免許の証を下した。その際に奉納された湯釜が社宝として残っている。 『河内名所図会』には、「一須賀神社は一須賀村にあり、延喜式内今天神と称す。当村大ヶ塚村の産土神也。宮寺に十一面観音を安置す」とある。 明治5年に村社に列格し、明治40年、石川村大字東山の村社・菅原神社、大伴村大字南大伴の村社・降旗神社を合祀した。・画像はウイキとyahoo地図より
★「磐船大神社」ウイキより磐船大神社(いわふねだいじんじゃ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある神社。神木の栂(とが)にちなみ、栂の宮(とがのみや、「樛宮」とも書く)とも呼ばれる。境内には、舟の形をした岩が48個あるといわれており、磐船、浪石、燈明岩などの巨岩・奇岩を見ることができる。磐船神社ともいう。■由緒旧事記天孫本記に「饒速日命(にぎはやひのみこと)十種のみたからを奉じ、天磐船に乗りて河内国河上の哮峰(たけるがみね)に天降り給う」とあり、これに由来すると思われ、古い時代は山を御神体として崇めてきた。・上記の文を読んでやっとわかったことがある。崇徳天皇に興味を抱いてからずっと不思議に思っていたこと。・「なぜ天皇の名前に祟る(たたる)という文字が付いているのだろう」と。・崇徳院をはじめ実質的初代天王崇神天皇、崇峻天皇というひともいなかったかなぁ・・つまり少なからずいる。・さらに言われていることは「崇」の付く天皇は悲劇の道をたどることが多かったとも。・なぜ「祟る」なの?と思っていたが、違うんだ!「崇める(あがめる)」なんだねぇ・・やっとわかったよ。 江戸時代、高貴寺の慈雲尊者が、葛城神道をひろめるにあたり、道場として社殿を建立した。 明治初年、神仏分離により、高貴寺と分離され、磐船大神社となった。・それにしても岩がごろんごろんとたくさんあるところによくも神社を建てたことよ。
年に一度のお目見え。今年はマトリョーシカの家族も一緒でにぎやかやね。
★「顕証寺 (河南町)」:ウイキより顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府南河内郡河南町大字大ケ塚にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は「近松山」。「大ケ塚御坊」とも。 河南町北部、大ケ塚の高台の上に、寺を中心にして周囲に寺内町を形成している。現在もその痕跡をとどめている。・あり?たしかななふく様のお寺も顕証寺だったよなぁ・・ともいましたが、それは八尾市の顕証寺でした。■歴史大ケ塚寺内町(だいがつかじないまち)は、鎌倉時代末期、念仏宗第7世法明が、当地に念仏道場を開き、布教をはじめたことに端を発する。 南北朝時代や戦国時代には大ケ塚周辺で合戦が繰り広げられたが、そのような状況下で、念仏宗の寺院を中心に寺内町が形成されていく。 元亀3年(1573年)、本願寺11世顕如が、大ケ塚に道場を開基し、「大ケ塚総道場」と称する。これが現在の大ケ塚御坊顕証寺のはじまりとなる。当時この地は柴田勝家に属し、柴田家の菩提寺とされていた。 のちに豊臣秀吉がこの地に城を築こうとし、寺をとり壊したが、築城は失敗に終わる。・むちゃしよんな。 正保3年(1645年)、本堂を再建する。 安永9年(1780年)、火事で全焼する。・壊されたり、焼けたりたいへんだったねぇ。 寛政6年(1794年)、現在の本堂が建立される。建築面積は、584平方メートルあり、建築に25年の歳月を要した。・結構な年月がかけられたんだねぇ。■行事「八朔法要」(はっさくほうよう)と「八朔市」(はっさくいち)が伝統行事として顕証寺と寺内町に伝わっている。 元禄年代に、京都御所の皇室から下贈された灯籠人形を本堂に飾ったところ、人々が次々に拝観に訪れたため、顕証寺周辺には自然と出店も出るようになり、八朔市が形成され現在に至っている。・ふふ、皇室のちからという訳でしょうか。・ところで、これも前に調べたことだが、(何度調べても覚えられん!)寺内町というのは寺を中心にした自治地区のこと。今回ハハーンとやっとわかったことは、周りを濠や土塀で囲った守りの固い閉鎖的自治地区のことだろうということ。だから、寺にお参りに来る人たちを相手に商業的に発展した門前町とは決定的に違う。いまごろわかったヤツ!・画像はウイキとyahoo地図より・この寺は高貴という名前のわりにうらぶれていた前回のお寺とは対照的になんだか生き生きしているように感じさせてもらえる寺である。・やはり寺内町まで作るほどのつわものたちがたくさんいて、寺を盛り立ててきたんだろうな。
たくさんやってきました☆うれしいなあ・・三丁目の夕日シリーズと和田はつ子氏作の「鶴亀繁盛期シリーズ」と「いねむり磐音シリーズ」の新刊。分厚いベールをかけています。
★「高貴寺」ウイキより高貴寺(こうきじ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は神下山。開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行者が草創した二十八箇所の修験霊場のひとつで、古くは底筒男命が降臨した地として、神下山香花寺と称した。 弘仁年間に、空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。・ここで名前が変わったんだね。 南北朝時代に、南朝の後醍醐天皇より北朝軍調伏の祈祷を命じられるなど南朝側についたが、元弘元年(1331年)の兵火により焼失した。・南北朝時代はどっちにつくかで運命が決まっていっただろうなぁ・・ 翌年に金堂が再建され、寺門六坊も復興したが、次第に衰微していった。 安永5年(1776年)に慈雲尊者飲光が入寺し、大和郡山藩主柳沢保光の帰依・支援を受け、堂舎を整備し、当寺を真言律と梵学修行道場とし、戒壇を設けて正法律の本山とした。 明治維新期の神仏分離により、磐船神社が分離されたが、堂舎は難を逃れた。・それまでは神社もお寺も一緒にあったということなのだろうか。 現在、堂舎として、金堂、講堂、開山堂、学寮があり、奥院には弘法大師御影堂、慈雲の墓、後桃園天皇の御実母の開明門院御髪奉安塔、柳沢保光(尭山)の遺髪碑がある。また、慈雲筆の梵学津梁一千巻を所蔵する。・うへー!一千巻!何が書いてるのだろう。 明治期の女流歌人、石上露子の没後50年を記念し、命日に当たる2009年10月8日に歌碑除幕式が行われた。・急に石上露子と出てこられても・・その人はウイキに載っていない。・画像はウイキとyahoo地図より
空き時間(待ち時間)ができました。★「弘川寺」:ウイキより弘川寺(ひろかわでら)は、大阪府南河内郡河南町弘川にある仏教寺院で、真言宗醍醐派の準別格本山である。山号は竜池山。本尊は薬師如来。665年、役小角によって創建されたと伝えられ、676年にはこの寺で祈雨法が修せられて天武天皇から山寺号が与えられたという。 平安時代の弘仁3年(812年)空海によって中興され、文治4年(1188年)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願している。翌、文治5年(1189年)には空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。 寛正4年(1463年)兵火により焼失したが、江戸時代に入り寛延年間(1747年〜1750年)歌僧似雲がこの寺を訪れ、西行堂を建立している。ーーーーー楽しみにしていた人「西行法師」がでてきましたっ☆ウイキで調べてみましょう。ーーー待ち人来たりでここで頓挫。
★「金山古墳」:ウイキより金山古墳(かなやまこふん)は、大阪府南河内郡河南町芹生谷(せるたに)に存在する古墳であり、全国的に珍しい双円墳。国の史跡に指定されている。墳丘の長さ85.8メートル、周濠を含んだ総長約104メートル、南丘直径55.4メートル・高さ9.4メートル、北丘直径38.6メートル・高さ6.8メートルの双円墳(瓢形双円墳)。 北丘は2段に、南丘は3段に築かれており、周囲には周濠がめぐらされている。また、各段の間と墳頂部の平坦な部分には敷石が敷かれていた。北丘の横穴式石室内の玄室と羨道には、凝灰岩をくり抜いて作られた家形石棺が2個置かれている。合葬では通常、玄室に石棺を並べるが、金山古墳では、玄室に先に納められていた石棺が巨大であったため、合葬する際にもう1個の石棺をやむなく羨道部に置いたと解されている。・なんと・・そんなこともあるんだ・・なお、石棺の実物大模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されている。 石室の全長は16メートル、そのうち玄室は長さ3.8メートル・幅2.48メートル・高さ2.84メートル、羨道は長さ6.26メートル・幅1.72メートル・高さは1.94メートルである。 石室や石棺の中は盗掘にあっており、1946年の発掘調査では石室・石棺の内外から、銀環(ぎんかん)2、瑠璃玉(るりだま)1、鉄製帯金具3、鉄刀2振り分の破片、鉄刀子(てつとうす)1、鉄鏃(てつぞく)十数本、馬具、土師器坏(はじきつき)、須恵器高坏(すえきたかつき)、壺などが出土した。また、1993年の発掘調査では、須恵器子持ち器台、壺が出土した。 南丘にも石室の存在が確認されているが、未調査である。 双円墳とは、2基の円墳を連接した形のものをいうが、全国的には珍しく、他には東大阪市の夫婦塚古墳、瓢箪山古墳が知られている。また、朝鮮の新羅の都であった慶州に多く見られることから、渡来人との関係も考えられている。 出土した土器や、石室・石棺の形から、6世紀末から7世紀初頭の築造と考えられている。・聖徳太子のいたころから、大化の改新のあたりか・・ 1991年2月15日に国の史跡に指定されている。 かつて濠面は水田となり、墳丘には民家が建てられていたが、1995年に「史跡金山古墳公園」として整備された際にそれらは撤去されている。・代わりの土地をもらったのだろうねぇ。当然。・画像はウイキ、yahoo地図より
★「近つ飛鳥風土記の丘(ちかつあすかふどきのおか)」このサイトよりhttp://www.kintetsu.co.jp/spot/spot_info/spot0000057.html河南町北部の丘陵地帯に広がる一須賀古墳群を中心に造られた公園。ウメの名所近つ飛鳥とは、奈良の飛鳥(遠つ飛鳥)に対してつけれた古称。古くから文化が栄え、その証しとなるのが河南町北部の丘陵地帯に広がる一須賀古墳群。風土記の丘は古墳群の一画を大阪府が整備したもので、一帯には河内を治めた渡来人の豪族の墓とされている古墳時代後期(6〜7世紀)の古墳が250近く点在。29haの園内には102基の古墳があり、うち40基が整備公開されている。古墳を巡る遊歩道や展望台も整備されている。平成6年3月25日に「府立近つ飛鳥博物館」が開館された。梅の名所で「大阪府立近つ飛鳥博物館」背後の丘陵に約140本が咲く。ーーー難波の宮から●近い飛鳥が「近つ飛鳥」(大阪府南河内郡周辺)●遠い飛鳥が「遠つ飛鳥」(いわゆる奈良県明日香村周辺です。)ーーーーhttp://sendo.fc2web.com/flame01/katudoukiroku/20060325naniwanomiya/naniwanomiya.htmこの↑ページもとても面白い。・それにしても中央区のところで、「難波の宮(なにわのみや)」について調べたよな。。。もう忘れているヤツ。・ところで、南北朝から、また飛鳥時代に逆戻りか・・・難波の宮の時代(645年の大化の改新の少しあと)には、まーあっちこっちに宮を作りまくり。・「ちったー尻を落ち着けたらどうなんでぃ」と江戸弁でいうとこうなるのか、じっとせん天皇さんやね!という感じ。・庶民の労苦はいかばかりだったことだろう。・難波の宮は港に近く外国との貿易などに都合が良かったようだ。・大阪城の南に位置するのだが、つまりその辺まで海だったということか。・画像はウイキとyahoo地図より
★「河南町概略」ウイキより河南町(かなんちょう)は、大阪府南河内地域に位置する町。金剛・葛城山脈の西麓に広がる。■歴史1889年(明治22年)4月1日、石川郡石川村、白木村、河内村、中村が発足。1896年(明治29年)4月1日、南河内郡が成立。1956年(昭和31年)9月30日、石川村、白木村、河内村、中村が合併し、南河内郡河南町となる町内に鉄道路線なし。・画像はウイキとyahoo地図より
★「千早赤阪村立郷土資料館」ウイキより千早赤阪村立郷土資料館(ちはやあかさかそんりつきょうどしりょうかん)は大阪府南河内郡千早赤阪村にある郷土資料館。千早赤阪村立郷土資料館は、千早赤阪村を中心とした歴史、考古、民族に関する収集、保管、展示するために1986年(昭和61年)に開館した。資料館の1階は、古代から近代にかけての出土物や歴史資料を、2階は民族資料を展示している。・ウイキからこの資料館へのリンクは外れているようだが、そのサイトは現存するのだろうな。(検索したらいいのだが、その気がいまいちない。おそらく楠木正成に終始するのだろうということが分かっているからか?)■主な展示物千早赤阪村の北部には、御旅所古墳、御旅所北古墳、森屋古墳群があり、発掘調査より出土した土器や銅鏡が展示してある。 また千早赤阪村は、千早城、上赤坂城、下赤坂城など楠木正成が築いた山城がある。これらの発掘調査の写真パネルや出土物、千早城の模型がある。 2階は江戸時代末から昭和にかけた凍豆腐の作製器具や林業の用具が展示している。・画像はウイキとyahoo地図
★「上赤坂城」ウイキより上赤坂城(かみあかさかじょう)は、日本の城。所在地は大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪。国の史跡に指定されている。 「上赤阪城」と書くこともある。別名、楠木城。小根田城、桐山城とも言う。楠木七城の一つ。・なんでそんなにいろいろな呼び名を持つ?鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の本城である。 昭和9年(1934年)3月13日、国の史跡に指定された。 現在、遺構として、等高線に沿った横堀と曲輪が認められる。これは、戦国期に改修を受けたものだと考えられる。元弘の乱の主要な舞台となった。元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いたが当城が楠木氏の本城となり、幕府軍に対した。翌元弘3年(1333年)、上赤坂城も落城し、正成は千早城に転じてさらに抗戦を続け、幕府軍を苦しめた。・この元弘の乱で、後醍醐天皇の倒幕の目論見が達成されたのに、あとの処置がいけません。・思うに取り巻きが多い人ほど、リーダーシップはとれないんだなとわかる。・自分が出向いていろいろなことを見て回らないと。・それを思うと崇神天皇はよく分かっていた人だなと思う。・そして、彼こそが初代天皇だと言いたい人が多い理由も。 ■歴史周辺の金剛山の尾根上には下赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。この城塞群は南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年(正平15年、1360年)に北朝方の手に落ちた。・楠木正成と言う人は(一代では無理だったかも)突貫工事の城をずいぶん建てた人だったんだねぇ・・・「河内国の悪党」と冠されるゆえんは?ーーーウイキより日本の歴史においては中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を悪党と呼んでいるーーーー・ははは、傑作やねぇ。悪党大いに結構!・画像はウイキより
★「下赤坂城」ウイキより下赤坂城(しもあかさかじょう)は、日本の城。所在地は大阪府南河内郡千早赤阪村森屋。国の史跡に指定されている。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。標高185.7メートル、比高61.4メートル。遺構はほとんど残っていない。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったとされる。千早赤阪中学校の裏手に石碑が残り、日本の棚田百選にも選ばれた美しい棚田の風景が広がる。 昭和9年(1934年)3月13日、「赤阪城跡」として国の史跡に指定された。楠木七城の一つ。楠木七城って?−−−−ウイキより楠木七城(くすのきしちじょう)は、後醍醐天皇の呼び掛けに応じた楠木正成が鎌倉幕府への抵抗の拠点とするために築城した城砦群である。現在の大阪府南河内郡千早赤阪村・富田林市・河内長野市にかけて城跡が残る。 千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七つの城を言う。ーーーー■歴史元弘の乱の主要な舞台となった。元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵。熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城、正成は金剛山に潜伏した。翌元弘2年(1332年)になると、正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、倒幕の気運が高まったとされる。南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年(正平15年、1360年)に落城した。周辺の金剛山の尾根上には上赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。一連の戦いの模様は『太平記』に記述されている。・画像はウイキより
★「千早神社」ウイキより千早神社(ちはやじんじゃ)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にある神社である。通称は楠社とも呼ばれている。千早神社は千早城の本丸にあり、もとは千早城の八幡大菩薩を祀って鎮守として創建したものであったが、後に楠木正成、楠木正行を合祀した。 1874年(明治7年)に社殿を再建、1879年(明治12年)に祠を建て千早神社となる。1907年(明治40年)に周辺にあった吉年の金峯神社、小吹の八坂神社、千早の坂本神社、中津神社を合祀した。千早神社は千早城の本丸にあり、もとは千早城の八幡大菩薩を祀って鎮守として創建したものであったが、後に楠木正成、楠木正行を合祀した。 1874年(明治7年)に社殿を再建、1879年(明治12年)に祠を建て千早神社となる。1907年(明治40年)に周辺にあった吉年の金峯神社、小吹の八坂神社、千早の坂本神社、中津神社を合祀した。・さて明日は千早城について。・楠木正成にどっぷりつかりましょうか。・画像はウイキとyahoo地図より
★「建水分神社」ウイキより建水分神社(たけみくまりじんじゃ)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分(すいぶん)にある神社である。通称水分神社(すいぶんじんじゃ)。水分大明神、上水分社(うえのすいぶんのやしろ)とも称する。式内社で、旧社格は府社。・なんと難しい正式名なんだろう。「水分」で「みくまり」と読むのか? 古来より金剛山鎮守として、また楠木氏の氏神として崇敬された。・しーちゃんのよく行かれる金剛山とは千早赤阪村にあったのか・・・■由緒社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。・出た!実質初代天王崇神天皇!精力的に動き回った人のようだ。・「よきにはからえ」ではなくね。好感が持てる。延喜式神名帳に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されている。「上水分社」の呼称は、美具久留御魂神社(富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。・南北朝時代に焼けたところも多いね。・南北朝時代とはいったい何を争ったの????を調べねばなるまいな。・だが、これには時間がかかりそうだから、次回意欲が出てきたときに譲ろう。 元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃した。このため建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。延元2年(1337年)4月27日、最高位である正一位の神階を授けられた。 中世、織田信長軍の河内国攻略の際に社領を没収され一時衰退するが、豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧された。 1873年(明治6年)の社格制定の際に付近18ヵ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列格した。1907年(明治40年)に神饌幣帛供進社に指定され、氏子地域内の17神社を合祀し、1913年(大正2年)に府社に昇格した。・画像は「建水分神社」のサイトの物と、yahoo地図より
画像を入れる前に何かの拍子でエンターを押したら、アップされてしまった。どうもいけません。画像はウイキと千早赤坂村のサイトより。ーーー長男の高校の時の友人に千早赤阪村から通ってきている若者がいた。その頃は私はそこが一体どこにあるのかしらなかった。大阪府で唯一の村が千早赤阪村だということは知っていたが。その学校は松原市にあるわけだから、毎日いくつかの市を通って通学していたわけだ、と今ならわかる。どれぐらいの時間をかけて通学していたのだろう。その人は東京大学に入学した・・と、ここまでは知っている。今はどういう社会人になっているのだろう。故郷に帰ることはあるのか、年に何度ぐらい?などといろいろなことを考えてしまう。若いときに苦労するのはいいもんやなと思う。苦労を苦労とは思わない頃に。そしてトシとってから、ボケ防止のための努力を惜しまないのも、これまたいいもんだ、なんてね。
★「富田林農業公園サバーファーム」このサイト↓よりhttp://www.savor-farm.or.jp/index.html広さ20ha・甲子園球場5個分の広大な敷地のサバーファーム。四季折々に咲き乱れる可憐な花々と、丁寧に育てた旬の果物、野菜たちが皆さまをお待ちしています。花の香りに包まれてたっぷり遊んだあとは、朝摘フルーツのフレッシュジュースや、採れたて野菜を使ったバーベキューに舌鼓をうつもよし、広々芝生の上でお弁当を広げるもよし。旬野菜を使ったお料理やクラフト工作などの体験教室や、餅つき大会などのイベントも開催しています。お土産はもちろん自分で収穫した果物や野菜たち。サバーファームは、1年中大地の恵みを実体験できる農業公園です。・どこがやっているのか知らないが、維持管理が大変だろうな。■サバーファームの名前のいわれサバーファームのサバー(Savor)は、「味、風味、香り」という意味。ファーム(Farm)はもちろん、「農場、農園」のことです。おいしく、香り豊かな自然の宝庫----そんな願いをこめています。・ということらしいですが、意味はいいのですが、読みがどうもいけません。・サバーというよりセイバーでしょう??・なんだか「サマーファーム」を鼻の詰まったひとが言っているようなひびき。・ならばいっそのこと「風の味を感じる農園」とかなんとか、まっとうな日本語の名前にすりゃあいいんじゃないの?と思ってしまう。・画像は上記のサイトとyahoo地図より