鳥取縣文化団体連合会といふ団体の事務局が昨年春独立したんださうな。 そしてこの春その機関誌が「鳥カルだより」といふ安直な命名で創刊された。 先日のオケの練習の時に配られたのだが、そこらにぽいと放つておいたのを、さつきヒマだつたのでつらつらと読んでみた。A3二つ折り計8ページのリーフレット状で、最後のページに「リレー随筆」といふ欄があり、創刊号の執筆者は須崎俊雄氏。
鳥取県では知らぬ人はほとんどゐないくらいの有名人で、著書もいくつか。 「鳥取県人物・人材情報リスト 2004」によると 活動分野および実績は、「作家(断層文学同人。戯曲・絵本などの出版)」とのこと。 鳥取縣文化団体連合会副会長。 鳥取市文化団体協議会会長。
そのエッセイのタイトルが標記の「足を洗う」といふもの。 まあ内容は面白くないこともない。目のつけどころはよい、が目のつけ方が下手、といふ感じ。
「『洗う』のはなぜ足なのだろうか、と思う」といふのが目のつけどころ。
「足について調べてみる。その格言のようなものを探ってみる。あるはあるは、ぞろぞろ足並み揃えて出てくる」
ここでまず假名遣ひの間違ひに引つ掛かる。 「あるわあるわ」の「わ」は終助詞の「わ」で、「何かに感動した気持ちを表す」(三省堂「新明解国語辞典」)語である。「ワ」と発音する副助詞の「は」ではない。かういふところを間違へる同人作家が縣文化団体連合会の副会長で市文化団体協議会会長といふのは縣民としては、また傘下の文化団体の一構成員としては少々恥ずかしい。
そしてこの文章は以下のやうに続く。
「『足が付く』『足が出る』『足が乱れる』『足が地についていない』『足を引っ張る』『足を抜く』『足が遠のく』『足を取られる』などなど、いずれも快適な状態を示すものではない。思わす人生の深淵をのぞき込むような暗然とした気分になる。『足をすくう』『足を棒にする』『足踏みをする』となると、虚無感すらただよう気配だ。さむざむとしてくる。 足は嫌われているようだ。 足は『悪(あ)し』か。 そうかもしれない。 だからそんな足を洗って、清める。清めたい。『禊(みそ)ぎ』というところに行きつくのだろう」
ここが「目のつけ方が下手」なところ(笑)。 挙げられた慣用句はいづれも人間にとつての「足」の重要性を物語るものであり、足が悪しきものであるなどとは正反対もいいところなのである。「足」が悪いのではない。「足が乱れる」ことがよくないと言つてゐるだけである。
よくない仕事から抜けるのを「足を洗う」と言ふのは、足が仕事の成否にかかわる重要な役割を果たしてゐるからだらう。その足をきれいに洗ふことで、そのよくない仕事をすつぱりとやめることを表現してゐるのだらうと思ふ。もちろん手も重要である。手にまつわる慣用句も足に劣らずたくさんある。「手を汚す」「手を染める」などの言葉があるのに「手を洗う」と言はず「足を洗う」と表現するのは何故なのか、といふ方向に踏み込んでもらひたかつたなあ。
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