自分の価値観は世界標準だ、と思っていても、気付いたらローカル化していた、という事は良くあります。最初にお断りしておきたいのは、ローカル化の善し悪しを語るつもりではなく、それが必然であるという前提の下で、最近の出来事について語りたいのです。 例えば、世界が変化しているという高説は如何にも天動説的である、という事実に関しては、果たしてどれ程の人が認識しているか、怪しいところだと言わざるを得ません。今や誰しも極普通に、世の中が変化している事を知っているかの如く考え振る舞おうとしますが、それが本当に世の中が変化しているからなのか、世の中が変化していると考えないと、馬鹿にされそうだと思っているだけなのかは微妙です。 そういう微妙な命題を考察する時、人は常に自分の消化し得る限りの情報に捉われた頭で、それを考えます。故に、その考えはどうしても普遍的で客観化されたものとはなり得ません。繰り返しますが、それは当たり前の事で、悪い事とは必ずしも言えません。そして、その言えないところに問題が残るのです。
前置きが長くなりましたが、経済のところから本題に移ります。大学の偉い先生の仰る「国際的な流れの変化に鈍感」との主張は、以上の観点から断じるなら、やや傲慢です。上は一国の首相から一介の平社員に至るまで、現代社会は国際的な流れの変化に鈍感では居られません。変化に対抗する手段として規模拡大が選択され、見えない所に至るまで、日夜構造改革と効率化が繰り返されている、はずです。 それが「結果として」鈍感であり、遅々として進まず、国際標準から大きく取り残されている、かの如く見えるのは、偉い先生が庶民の感覚とかけ離れているから、ではなく、彼等の脳内に浮かぶ「流れの変化」が、私達の見るそれよりもずっと早く動いているかの様に思われているからです。流れの変化自体は同じ速度ですし、私達と学者諸兄の感覚に差のある訳でもありません。
認識の、極言すれば「思い込み」の差によって、権威は実態とは乖離した状況判断を行い、それが共通認識として糊塗され、墓穴を掘ります。困窮する大衆や、その意向を受けて動いている政治家の勘定では、緊急経済対策として注ぎ込まれた税金は金融機関で希釈された後、困窮層への融資という形で彼等の生活(という名の経済活動)を下支えし、何れ還流して国富へ戻ってくるはずでした。しかし、入り口の金融業界の側からすれば、成長の見込めない国内に融資するよりは、今後の利益の見込める新興市場へ投資する方が、結果として国益に適うというのが普通の勘定だった訳です。 この、認識のずれを改善しない限り、幾らお金を注ぎ込んでも経済は回復しませんし、2番底のみならず、3番、4番と繰り返し底を伺う、恐ろしい展開が続く事になります。それを回避する手段は、自分の勘定が標準だとの思い上がりを、私達全員が捨て去る事しかありません。
その上で、私達の基準は私達自身しか救わないとの覚悟の下に、認識の共通化を「謀る」必要があります。貸し渋りをする金融機関は全て潰す。金融機関は資金のみならず人材まで無期限で貸し出し、自らが潰れた後に備える。貸し出された人材は、出向先で将来に備えた人脈を作り再就職の為に技術を磨く。そして貸し出しを受けた側は、それによって生み出される価値を全て経済に還流させ、自分の所に余剰を残さない。 それ位しないと、我が国の窮状は恐らくあと1年程で、現在の英国かギリシャと同等になります。東京は1万円を割り込み、週明けのNYも同じ事になっています。本日も胃の痛い朝を迎える事になりそうです。
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