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附六会だより 掲示板

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881.10月号<街・もりおか>はバーグマンの里帰り  
名前:細越麟太郎    日付:2016/10/01(土) 05:24
<街・もりおか> 10月号

 盛岡番外地・11

 彼女の100才誕生日パーティ        細越麟太郎<絵と文>


 わたしは盛岡一高に通うために、毎日、加賀野の家から上の橋を渡り、本町通りをまっ
すぐ上田に向かって歩いていたのは、大昔の・・・昭和25年の頃。
 いつも下校する途中で、本町の中程の左角に、名もない小さな雑貨屋があって、そこに
はなぜか駄菓子の陰に、歌謡歌手や映画スターのブロマイド写真が売ってあった。
 洋画の好きだったわたしは、当時お気に入りの映画スターのハガキ大の写真を見つけて
は親にナイショで買い、教科書やノートに挟み込んで持ち歩いていた。
 テレビが普及したり、映画館がシネコンになったり、新幹線が出来たり、わたしが大学
受験に上京してからは一気に当時の状況は一変して、たまに帰省しても、内丸座や国劇も
なくなり、その雑貨屋もいつか消えてしまっていた。
 大学を卒業して銀座の会社に就職して、わたしも東京放浪者のように転居を繰り返して
いた間に、内加賀野にあった我が家も他人手に渡り、いつか消えてしまった。
 その流転の時代にも、大切に手元には数枚のブロマイド写真を持っていたのだ。
 ランドルフ・スコット、ロバート・テイラー、ゲイリー・クーパーらのヒーローに混じ
ってジューン・アリソンとか、イングリッド・バーグマンの女優のものもあった。
 というのも、当時、映画館通りの中央ホールで、ヒッチコック監督の「汚名」や「白い
恐怖」、それに「誰が為に鐘は鳴る」も見て、すっかりイングリッドのファンになってし
まっていたのだ。おそらくは心の中の初恋のひとだったのだろう。
・・・「その高い鼻で、どうやってキスするの?」とイングリッドが言うと、相手のクー
パーは「こうするんだ」と言うなり、首を横にして彼女にキスをした。
 国劇でも「凱旋門」、「ガス灯」や「サラトガ本線」を見て、すっかり彼女に夢中にな
ったのも、つまり、彼女は時代のヒロインだったからだ。ただの美貌ではなく、アカデミ
ー賞を3度も受賞したのだから、スターというよりは<大女優>だった。
 しかし1950年代後半になって、バーグマンはハリウッドから消えてしまい、低予算
のイタリア映画にたまに出るようになって、わが初恋の彼女は消えてしまったのだ。

 この8月29日の台風の夜に、東京渋谷の東急Bunkamuraギャラリーでは、その夜に
偶然にも生誕100年の誕生日を迎える女優イングリッド・バーグマンのバースディパー
ティが、彼女の故郷のスェーデン大使館の主催で開かれていた。
 たまたま彼女の秘められていたイタリア生活時代の秘蔵フィルムが、娘で女優のイザベ
ラ・ロッセリーニの尽力で映画化され、『イングリッド・バーグマン〜愛に生きた女優』
が、上階のル・シネマで公開されたのを記念してのイベントだった。
 わたしがその席に招待されたのは、実は、その高校時代に本町通りの雑貨屋で買って、
大切に保存していた彼女のブロマイドが、会場に展示されたからである。
 多くのオリジナル・ポスターに混じって、その茶褐色に変色したブロマイド写真はガラ
スのショーケースに、誇らしげにティファニーの宝石のように飾られ、シャンペングラス
の陰で、初恋のイングリッドは微笑んでいた。
 そのブロマイドはここでご紹介したいが、その後スウェーデン大使館のロビーで展示さ
れることになり、彼女は100年目で実家に里帰り、となったのだ。

❤追記
やっと、9月30日に、多くのバーグマンの資料と一緒に、わたしのブロマイド写真も無
事にスウェーデン大使館からの紅白フレンチ・ワインセットを手みやげに帰宅しました。

880.「街・もりおか」8月号は、大先輩へ。  
名前:細越麟太郎    日付:2016/07/31(日) 08:33
街・もりおか 8月号

  盛岡番外地(10)    Q画伯を追いかけて         細越麟太郎


 近所の映画館「国劇」で洋画に熱中した中学生の頃、下の橋に住んでいた映画好き同級
生と一緒に、ある日、思い切って川徳百貨店の前の東山堂書店で映画雑誌を買った。
 ひとりで買うのは不良少年だと疑惑の視線、ふたりなら勇気が出たのだ。
 わたしは当時「世紀の女王」という映画に出演していたエスター・ウィリアムズが好き
だったので、咄嗟に表紙で彼女が微笑む洋画専門誌「映画の友」を買う事にした。
 友人は、同じ雑誌を買ってもしょうがないので、「スクリーン」という雑誌を買い、時
々会っては雑誌を交換して見て、ますます外国映画の魅力に心酔していったのだ。
 「映画の友」は淀川長治さんが編集長で、どちらかというとハリウッド系で、「スクリ
ーン」の方はヨーロッパ映画をメインに扱う関係で、まったく個性は別だった。
 盛岡一高に進んでも、その親友との友情は、毎月の雑誌交換で深まっていて、淀川氏が
国劇で講演された後も、一緒に夜中まで氏の映画談義に魅了されたのだった。
 わたしは絵を描くのが好きで、学校の宿題よりはスターの似顔絵を描くのが日課になっ
ていて、よく雑誌の口絵のイラストを真似して描く様になっていたが、「映画の友」の挿
画はいかにもハリウッド的で、<ニューヨーカー>誌のようにシャレてたが、「スクリー
ン」の方は、さすがにヨーロッパ的で、まるでマチスのデッサン画のように端正。
 東京に出たくて、自分で受けられる大学を探したときも、一高の先生は六大学は無謀だ
から、芸大にしなさい、と薦められ「スミス都に行く」のように上京、結局、芸大は落ち
て、二次希望だった多摩美術大学に受かったのは、わたしの人生の幸運のひとつだった。
 というのも、二年先輩に和田誠さんがいて、彼とは「映画の友」誌のスター・カリカチ
ュアという一般応募ページで、お互いにライバルだったことを知っていたからだった。
 そのことは和田さんの「鉛筆画映画館」という本に回想されている。
 彼はソール・バスという映画のタイトル・デザイナーの大ファンで、「八十日間世界一
周」のエンディング・タイトルの画風に似た作風で一気にブレイクしたのだった。
 わたしは多摩美術大学の教授だった山名文夫先生の推薦で、彼が顧問をなさっていた銀
座の資生堂本社宣伝部に入社したのだが、上司に盛岡出身の中村誠さんがいらしたのも、
いま思うと、幸運な陰謀だったような偶然を感じていた。
 あのヒッチコック監督が来日したときに、まだ学生で、当時パラマウント映画でアルバ
イトをしていたわたしは、パーティの席上で、淀川さんから野口久光画伯を紹介されたが、
その後、よく試写室ではお会いしてお話ししたが、やはりヨーロッパ系のスターの線描画
をお画きになる先生は、遥かなる雲の上の大画伯という印象。
 一方の「映画の友」のスター・カリカチュアでは、直木久容というベテランがいて、ど
ちらも「Qチャン」と呼ばれていたが、わたしは相変わらずハリウッド系のカリカチュア
が好きで、野口Q先生というのは、<芸大の画伯>というコンプレックスがつきまとって
いたのだった。だから先生の描かれたヨーロッパ映画のスターのポスターには一礼してか
ら、恐る恐る試写を見ていたのだった。
 おそらくは、先輩の和田誠さんも同じ気持ちだったと思う。
 現在、岩手県立美術館で開催中の「野口久光シネマグラフィックス展」には、従って、
わたしも運命的に、Q画伯を追って観る、大いなる責務があるという気がしている。

879.今月はミステリー???  
名前:細越麟太郎    日付:2016/06/03(金) 09:26
「街・もりおか」6月号

 盛岡番外地(9)    41・ノガカ・ミステリー       細越麟太郎(文と写真)


 つい先日の話だが、わたしの住む東京世田谷区の二子玉川にある<ライズ>ショッピン
グ・センターのフード・マーケットでのこと。
 旧市街地を延べ10年以上もかけて一掃した新開発エリアは昨年5月にリニューアル・
オープンし、今年の<地球環境大賞>を受賞したが、その地下街には多くの全国有名食品
店が東京ドーム級の広さがあって、わたしと家内の日常的な食品調達エリア。
 ふと(ハチミツ)の特売コーナーに足をとめた家内に、紺色のハッピを着た長身の店主
が声をかけてサービスしていたが、その背中には「ノガカ」と白文字で書かれていた。
 しかし、それは右から読めば「カガノ」になるのは、わたしは昭和13年の9月にその
盛岡市カガノで生まれ、18年も高卒まで過ごしたので、すぐに判読できた。
 親切なご店主は、熱心に蜂蜜商品のセールスを家内にしていたが、それが加賀野と天神
通りの交差点にあった<藤原養蜂場>の出店であることはすぐにわかったので、商品を買
い上げたあとに、むかしの盛岡の事などを立ち話をしたのだ。
 当時から、あの角にあった店舗は、よく父親が<百味庵>が四つ角にあった頃に連れて
行ってくれたので知っていたし、蜂蜜の大好きなファンだった母親もしょっちゅうお世話
になっていた関係で、いまだに年賀状を頂戴しては、恐縮している。
 その白髪まじりの長身の彼が三代目の誠太さんだということは、自己紹介でわかったが、
何と弟さんが、本誌編集長の斉藤純くんのマンションの階下にお住みだと言うから笑って
しまった。世の中は狭いものだという事が、ここでまた実証されたのだ。
 わたしは帰省のたびに、わが生家の跡地の上の橋通り、かつての加賀野周辺には足を向
けるのだが、その界隈には今は「加賀野惣門跡」という標識が道路にあって、<紙町桝形
>とも言われていて、<道路を鍵形に屈曲させて、城下の守りにしていたのだ>と表記され
ている。そしてこの<惣門>というのは、この標識から20メートルほど南側にあった、
と推定されているのだと明記されている。
 とすると、おいおい、それって、昭和の初期には、わが生家があった辺りではないか。
 その周辺は見事に変貌してしまい、跡地には、かすかに白い蔵もあるが、当時の印象と
は多少小振りで、屋根は新しくなり、いまはどなたが何にご使用しているのかは判らず、
家の庭のあった東北の道路際の角の狭い三角州の空き地には、寂れた石灯籠が大小ふた
つ、雑草の中にしょんぼりと鎮座し、残っている。
 細越夏村のいた時代には栄華を誇示していたろうが、昭和13年にわたしが生まれた時
代には、たしか三つの石灯籠が屋敷の庭にあって、内庭には夏の夜にはローソクの灯をと
もし、よく子供の頃には<かくれんぼ>などして遊び、親に危ないと怒られたものだが、
これもその当時の残骸なのだろうか。
 太平洋戦争敗戦の前後には蔵の中にあった長い槍や刀剣なども接収されて、蔵の白い壁
などは空襲の標的になるという当局の支持で、広いキャンバスのように乱暴に墨で汚され
てしまい、あの優雅な佇まいはあっという間に失われてしまった。
 近くの朽ちた板塀には、錆びた道路標識が今も残されていて、<ここは加賀野1丁目2
番地>と記されているが、わたしの学生時代には<内加賀野41>だった。
 時代の移ろいは、こうしていつか、ミステリーとなってしまうようだ。

878.「街・もりおか」4月号です。  
名前:細越麟太郎    日付:2016/04/01(金) 09:47
<街・もりおか>4月号

 盛岡番外地❽   高齢ノスタルジー症。         細越麟太郎<文と写真>


 盛岡一高を卒業して東京に出て来てから、もう60年になるが、たまに帰省のために、
東北新幹線に乗ると、とりあえずビールを一口呑んでから、前の座席のポケットにある
車内誌の<トランヴェール>をペラペラと流し見る。
 去年の秋に読んだページに、山田五郎さんの書いた<旅先はアート日和・7>「盛岡
の空気」というエッセイがあった。それによると、彫刻家の船越 桂さんが語った言葉。
 ・・・人はオギャーと生まれて最初に吸った空気を生涯、肺に残し、最期にそれを吐
いて死ぬ。・・と書かれていて、ふと同感してしまった。
 盛岡の駅のホームに降り立つと、いつも感じる懐かしい空気感は、おそらくわたしが
昭和13年に初めて呼吸した空気の甘さと親しみが体内で復元されるからだろう。
 墓参りをして、つい脚が中津川の富士見橋の辺りに向かうのも、あの川面の空気感が
無性に懐かしく感じるからで、「あああ、、これだよ。」という感慨も変わらない。
 周囲の風景や河の蛇行も、わたしが遊んだ頃とは違う筈なのに、空気感は同じなのだ。
 ・・・リバー・ランズ・スルー・イット・・・か。
 まるで歌人にでもなった気分になると、背後で石川啄木が笑っている。
 わたしは戦後の間のない時代に附属中学に入学したが、その時のクラス会が<附六会>
といって活発で、いまでも文集を出したり、先日も東京銀座で開催した食事会には30
人ほども同窓生が集まって盛会だった。これには熱心な幹事の尽力があるが、なぜか盛
岡一高や、多摩美術大学の同窓会には失礼ながら、あまり出る気がしない。
 というのも、あの盛岡らしい空気感と時代に関係があるような気がしている。
 中学というと初恋の季節だが、やはり友人関係でも一番に密度があった世代だったの
だろうか。当然、何かの事情で出席できない人も、消息不明や亡くなったひともいるが、
なぜか元気な連中は毎年勇んで集合するのである。
 <附六会>という名前は、おそらく戦後の六回目の卒業生のグループなので、その名
前が命名されたのだろうが、かなり熱心な世代だったのだろう。
 仕事の忙しかった現役時代にはクラス会を遠慮していたわたしだが、よく個人的に会う
友人が幹事をしている関係もあって、リタイアしてからは引き出される様になったのだ。
 昨年には喜寿のお祝いもしたので、気がつくと、かなり老齢の集会となり、当然のよう
に病欠する者も増えて来たし、話題はつい体調に関する話題が多い。
 それでもみんな、一見お元気なのは、やはり<盛岡の空気>のせいだろうか。
 ほぼ卒業生の半数が東京周辺に在住しているが、とにかく活発なのは、むしろ盛岡の
在住メンバーを凌駕しているのじゃないか、と思うほどなの鼻息だ。
 おそらく東京という大都市での生活には、かなりの脚力と認知力と根性が要求されるの
じゃなかろうか、というのが、みんなの自覚反応なのだ。
 わたしは今年も「キネマ旬報」誌上のアカデミー賞予想座談会というのを、何と退職後
18年も続けているが、そのためにはノミネートされている20数本の新作を短期間の間
に試写で見る必要があって、先日などは1日に4本の試写を見てしまった。
 別に自慢にはならないが、離れた試写室に短時間で移動するという労力は半端じゃない。
 しかも最寄りの駅が不便な時には、急いで歩く必要があり、これって、かなりの脚力が
いるのだから、寒い時期なのに風邪も引いていられない・・・という具合。
 そう、われこそが大都会の高齢『レヴェナント・蘇えりし者』なのだ。
 試写室のお気に入りのシートに坐った瞬間、なぜか、あの東北新幹線のシートに坐った
時の様に、ふうーーと一息して、ああ、これも<盛岡の空気>のせいかな、と思ったりす
る瞬間。・・・・ありがたいものだ。

877.2月号は、不思議な<ママ>の思い出  
名前:細越麟太郎    日付:2016/02/01(月) 08:55
街・もりおか・2月号

 盛岡番外地 ❼     気ママな式典        細越麟太郎(文と写真)   


 母の命日の時期になると、毎年のように盛岡に帰省して、北山にある墓の掃除をする。
ちょうど寺の境内の紅葉が美しく、なぜかいつも日和が穏やかだ。
 妻と息子夫婦と参拝したあとに、本誌編集長の斎藤純くんと、6時から本町の<俺っ
ち>で食事の約束をしていたが、まだ1時間ほど余裕があったので、なるべく近くの純
喫茶<ママ>に行った。
 盛岡のひとで知らない人のいない名物喫茶店は、わたしが小学生の頃に生まれて初め
て入った<おとなの空間>であって、たしかすぐ近くにあった<内丸座>で、上原謙の
『愛染かつら』だったか、映画を見たあとに母に連れられて入った記憶がある。
 店内には、エディット・ピアフかジュリエット・グレコか、いかにも<ママ>の微笑
を感じるようなシャンソンが流れていて、<ジタン>の煙のような匂いがしたものだ。
 まだ昭和25年頃の戦後の何もない時代に飲んだココアの、かすかな印象だ。
 わたしたちは窓際のスペースに坐ったが、昔からの椅子が小さいのか、ママさんがわ
ざわざ予備の椅子まで出してくれたので、ゆっくりと郷愁の時間を過ごしたのだ。
 ふと、トイレに立った息子は、建物の横の路地の先の手洗いの佇まいに、遠い昔の時
差を感じたのか、まるで幽霊にでも出くわした表情で戻って来たので、皆で笑った。

 それからしばらくして、わたしは<京都賞授賞式>という式典に招かれた。京セラの
稲盛財団、稲盛和夫会長が創設した国際賞授与の盛大な式典である。30回目の今回
の受賞はスイスの宇宙物理学博士のミシェル・マイヨール氏など3名。
 なぜ、わたしが招待されたのかは未だに判らないが、とにかく名誉なことなのだから
出席した方がいい、というのが、友人たちの助言だったので、東海道新幹線に乗った。
 案内によると、会場は国立京都国際会館の大会議場となっていて、宿舎はそこに近い
<グランドプリンスホテル京都>となっている。困ったのは、ドレスコードが義務づけ
られていて、男性はタキシード等の準礼装。主賓として高円宮妃殿下久子さまや、ノー
ベル物理学賞受賞の山中教授も列席される、というではないか。おおごとなのだ。
 いつもジーンズで行動している小生にとって、これはケッタイな難事件であった。
 ま、とにかく友人の結婚式にでも出るつもりで会場に行ったら、厳重な警備員の列に
凝視されつつも、荘厳な京都国際交響楽団によるスメタナの壮大な交響曲に迎えられて、
気分はまるでノーベル賞授賞式のVIPみたい。
 式典のあと、ウェルカム・ドリンクはファミーユ・ペランの赤ワイン。晩餐会は、ホ
テルの大きなホールに500人位の招待客が着席、もちろん知人はひとりもいない。
 慇懃なボーイに指定されたテーブルについたら、周囲はほぼ同世代の敬老会状況なの
だが、モントーブレ・ブリュットNVというシャンパンがグラスにつがれて、フォアグラ
やキャビアにローストビーフ・・・と、テーブルの上には映画でしか見た事のない華麗
なるフレンチ料理の数々が手際よく並べられる。
 さて、乾盃の儀となり、初めてお隣の席の和服のご麗人の笑顔を拝して、驚いた。
 頂いた名刺によると、京都N大学の英語英文学科の主任教授と書いてあるが、なぜか
その表情は、どこか懐かしくも親しげではないか。
 その微笑は、驚いたことに、かすかに、あの<ママの時代>の、わたしの母の若い
頃の記憶にそっくりなのであった。・・・なぜ、わたしが、その宴席に招かれたのか。
 その秘密が、もしかしたらこれなのか。天国の陰謀なのだろうか。
 わたしは既にミステリアスなアルコール性の酩酊の中にいたのだった。

 

876.「街もりおか」12月号の番外地はジョン・ウェイン。  
名前:細越麟太郎    日付:2015/12/01(火) 09:12
<街・もりおか> 12月号

    盛岡番外地6   はじめての英語          細越麟太郎<絵と文>


 わたしが岩手大学附属小学校に通うようになって、すぐに戦争が終わって、しばらくし
て紺屋町にあった洋画専門映画館の<国劇>も早々に上映を再開した。
 映画の好きな父親は、とくに娯楽のない時代だったからか、毎週のようにハリウッド映
画を見にいっていたらしく、たまには人畜無害の作品のときにはわたしも随行した。
 しかし小学生には、まだ英語もフランス語も区別はつかず、ましてや画面の横に出る字
幕スーパーなどは読むのにも追いつけなかった。
 それでもジョニー・ワイズミュラーの「ターザン」ものには熱狂して、そのノリで西部
劇も見る様になったのは、まだテレビもない時代の<流れ>だったのだろうか。
 学校の先生には「外国の暴力映画を見ると不良になるぞ」と脅され叱られたものだが、
それ以上にハリウッド映画の魅力は絶大だったのだ。
 たまに「風と共に去りぬ」のような大作は上映されても、ほとんど毎週のように海賊映
画と西部劇ばかりで、たまには美女とアステアが踊るミュージカルが賑わっていた。
 父は立教大学英文科の卒業だったので、よく駐留のアメリカ兵を家に招いて座敷で歓談
していたが、実は連中はうちの屋敷を、米軍駐屯用に借用しようとしていたという。
 ある昼下がりのこと、3人のアメリカ兵が座敷に来て広い庭園を眺めて談笑していたが、
小学校から下校したばかりのわたしは、その席に突然呼ばれたことがある。
 父は、駐留軍のアメリカ兵たちに挨拶しなさい、と促したのだ。
 当時は、中学生にならないと英語の教育は受けていないので、わたしは困ったのだが、
当時よく母親の友人が経営していた繋温泉に、<ハロー>という旅館があり、その名前が
英語では「こんにちは」という意味なのを知っていたので、咄嗟に「ハロー」と呟いた。
 彼らは喜んで、ポケットからハーシーのチョコレートを出して、わたしに恵んでくれた
のだった。それは、まさに人生初めて味わう<舶来>の美味だったのだ。
 あのビタースイートなチョコ味は、もう70年しても忘れることはない。
 戦争に負けたことの深刻さを知らなかったわたしは、それからアメリカに憧れた。
 でも英語は「ハロー」のほかは「グッバイ」しか知らない。
 で、咄嗟に「・・ジョン・ウェイン・・」と言ってしまった。というのも「ダコタ高
原」や「拳銃無宿」などの映画を見たばかりで、知っていた英語はそれだけだったのだ。
 大きなアメリカ兵のひとりは巨体で、青い目つきも、どこか似ていたのだ。
 「ジョン・ウェイン・・・??」と言うなり、3人のアメリカ兵は座布団から転げて
爆笑したのだった。「イエス、ジョン・ウェイン」と彼らは笑い続けたのだった。
 よほど可笑しかったのか、彼らはチューインガムまで恵んでくれたのを思い出す。

 というのは、つい最近、ジョージ・クルーニーが監督主演した「ミケランジェロ・プロ
ジェクト」という映画で、まったく同じシーンがあったからだ。
 戦争が終わったベルギーの街道で、勝利した連合軍が行進していると、道路の反対側を
負けたドイツ軍の傷ついた兵士が無気力に歩いて来る。
 すれ違い際に、ドイツ兵のひとりが、アメリカの兵に「ジョン・ウェイン・・・」と声
をかけると、両軍の兵隊たちが一斉に爆笑したのだ。感動のシーンだ。
 やはり<ジョン・ウェイン>というのは、世界の友好の共通言語だったのだ。
 そしてわたしもジョン・ウェインの映画で、人生の多くを学んだ。

*ジョン・ウェインの挿画は、「街もりおか」12月号で見てください。

875.「街もりおか」10月の番外地は元麻布。  
名前:細越麟太郎    日付:2015/10/02(金) 09:24
<街・もりおか 10月号>
 
  アビーロードの盛岡交番 <盛岡番外地5>    細越麟太郎<絵と文>


 名優アル・パチーノが主演した『Dearダニー・君へのうた』という映画は、おそら
く盛岡でも公開されただろう。
 あのジョン・レノンからの手紙が43年して、やっとダニーに届いた、という実話
の映画化で、そのダニーというミュージシャンをパチーノが演じていた。
 駆け出しの頃のダニーは、当時憧れのレノンにファンレターを送ったが、その返事
の手紙はなぜか事務所の不手際で本人には配達されず行方不明になった。
 それがどうしたことか、最近になってダニーに届いたのだ。
 ヒットのない中年のダニーは、ドサ回りで怠惰な歌手人生を空費していたが、その
レノンからの激励の手紙に感動して、残りの人生をガラリと変えようとした。
 嘘みたいな話だが、これは実話だからこそ、感動があった。

 で、そのジョン・レノンの、嘘のようなホントの話を思い出してしまった。
 1969年の秋。わたしは東京で、デザイナーとして仕事をしていて、港区の麻布
十番に住んでいた。初めてニューヨークの出張から帰ったばかりのわたしは独身で遊
び人だったが、近所にクリエイティブな友人が多く、毎晩のように遊んでいた。
 デザイナーの菊池武夫くんや、奥さんの稲葉賀恵さん、アナウンサーの楠田枝里子
さん、ジャズ・トランぺッターの日野皓正くん、草刈正雄くんなどと、元麻布の「サ
ーカス」というカフェに、毎晩のように通っていた時代だ。
 そこのオーナーの伊藤勝男くんというのが、非常に人脈が広くて、同じ東北人のせ
いか、いろいろな人物を紹介してくれたものだ。
 本誌でも編集長が丁寧に紹介していた<盛岡交番>のすぐ近くにあったカフェは、
テニスコートの前のビルの地下にあって、サーカスの団長の伊藤くんの知り合いでな
いと、ちょっと入りずらい<隠れカフェ>でもあったが、毎晩のようにアーティスト
やモデルや有名人で賑わっていたのだ。
 彼は六本木西の、元防衛庁があった通りから青山墓地寄りに入った袋小路の古い洋
館に部屋を借りていたので、カフェが閉店した週末などには、日野くんなど数人でそ
の部屋に入って、朝まで酒を飲み<駄弁って>いたのだった。
 コンビニでスナックを買って来た団長は「いま、そこでジョンとヨーコに会ったよ」
というのだが、当時のわたしはジャズ・ファンだったし、横で日野テルくんがいたの
で、「あ、そう」という程度だった。
 なぜかジョン・レノンとヨーコは当時その近くの洋館に間借りしていて、「サーカ
ス」にも顔を出していたという団長は、ジョンの描いた下手なイラストも見せてくれ
たものだ。<極太きんぴらごぼう>がレノンのお気に入りだった。
 「こんど、サーカスに来たら、あいつを紹介するよ」
 しかし、結局、わたしはジョン・レノンと会う事はなかった。
 もしあのとき、盛岡交番の近くを散歩していた彼らに会っていたら、もしかしたら、
わたしの人生はもっと別の道<アビーロード>になっていたかも知れない。
 しばらくして、ジョンとヨーコはニューヨークのセントラル・パーク・ウェストの
ダコタ・タワーに引っ越してしまい、「サーカス」も3年ほどして、ビルの立て替え
で閉店して、われわれの青春も終わってしまった。







  

874.「街・もりおか」8月号は、セミと玉音です。  
名前:細越麟太郎    日付:2015/08/01(土) 08:01
●街・もりおか  8月号   <盛岡番外地❹>

  玉音を消した蝉音          細越麟太郎<絵と文>



 八月になると、耳の中で蝉(せみ)の哭き声が聞こえてくる。
 後期高齢者の耳鳴りかもしれないが、むかしは蝉が非常に多かった気がする。
 あの『日本のいちばん長い日』の盛岡も、見事に快晴の、暑い夏の日だった。 
 岩手大学附属小学校1年生のわたしは、はじめての夏休みに夢中だった。日本が戦争中
なのは知っていたが、事態の深刻さは微塵も感じてはいなかった。
 正午に天皇陛下の<玉音放送>があることは、父親からも忠告されていたが、わたしは
裏庭での蝉採りに必死だった。その放送の歴史的なコトの重大さは察していたが、わたし
にとってはマジ、標本の蝉採りの方が重大な夏休みの宿題だったのだ。
 当時の内加賀野にあった我が家の庭は広くて、庭には樹々が茂っていて、遊ぶには絶好
のスペースがあったが、蝉は杉や柿の大樹よりも、より垂直に高い、長身なポプラの樹に
とまって誇らしげに鳴いていた。幹が太いので止まりやすいのだろう。
 その日も、広い庭の方々の樹には多くの蝉は飛来して、かなり盛大に合唱していたので、
天皇陛下の放送はかき消されるほどに騒々しい。
 座敷の縁側から、正午の時報のあとの放送は聞こえたが、どうせ陛下のコメントは難解
で、当時の小学1年生にはお経か呪文のようなニュアンスがあって理解できなかったが、
それが太平洋戦争の終決を意味していたのは、おおよそ察しがついていた。
 だから、わたしにとってはポプラの大樹の蝉を探す方が一大事だったのだ。
 ポプラの大樹というのは、近所でも我が家の2本は際立って垂直に高く、愛宕山の頂上
からでもひときわ目立っていた。だって、昭和20年の夏だ。大きな建物といっても紺屋
町の消防団の火事の見張り櫓か、中の橋の松屋デパートくらいのものだった。あとはすべ
てが二階建ての木造長屋が並び、ポプラは蝉の目にもいちばん休息の大樹だったのである。
 鳴き声を頼りに探して、蝉を長い昆虫採りの竿で捕まえると、数匹を標本用に確保した
あとは、いつものように<煙幕>の花火を紐で蝉の胴体に巻きつけるのだ。
 ちょうどタバコ一本くらいの煙幕の花火は夏の人気商品で、点火すると30秒くらいは
白い噴煙を勢いよく吹き出して、最後にドカンと空中爆発する。
 悪魔の発想だが、それを蝉の胴体に巻きつけては点火して、空に投げ飛ばす。
 まさに宇宙ロケットのように勢い良く噴出する花火のパワーで、哀れな蝉は必死に上空
に飛び上がり、30秒ほどのラスト・フライトで爆発して四散するのだ。
 あまりの残酷な遊びに怒った父は、「たった一週間の命の蝉を、そんな残酷な殺し方を
してはいけない」と語気を強めて言っていたが、小学一年生の不良少年には響かない。
 胴体に針を刺して標本にするよりも、花火は壮絶で華麗な最期だと思っていた。
 しかし火焔を吹きながら家の屋根にも着地する危険はあったので、それからは不良グル
ープで<蝉ロケット>の儀式は、中津川の川原で行う様になったが、このことは夏休みの
日記には、なぜか、後ろめたさもあってか、書かなかった。
 その日から、日本は平和が戻り、盛岡の熱い夏の空も静かになったのだ。

873.映画「ゆずり葉の頃」のおすすめ。  
名前:細越麟太郎    日付:2015/06/10(水) 15:19
●『ゆずり葉の頃』

   かくれんぼと邂逅と。    細越麟太郎<映画評論家>


 「もういいかい?」・・・『まあだだよ』。
 映画のプロローグに聞こえてくる懐かしい語感。
 「この世はいつも、かくれんぼ、よ」と主人公の市子が呟く。
 少女のころ、昭和の戦争時代に信州に疎開していた彼女は、神社の裏山に龍神池という
神秘的な清水の湧き出る池の端で、偶然に出会った少年から、二粒の飴玉を貰った。
 夢に向かって生きる。と呟いた少年は後にフランスに渡り、著名な画家として成功した
が、「原風景」と題した作品には陽だまりに佇む少女の姿が描かれていて、その印象は、
彼女の心の中でも、個人的な<原風景>となったのだった。
 夫の病死のあと、和服の仕立てで生計をたてた市子は、ひとり息子を育て上げ、いまひ
とりで人生の黄昏に立っているが、葉色鮮やかに紅葉する樹々とちがって、<ゆずり葉>
のように、鮮やかな緑いろの葉のままに散りたい、と願っている。
「・・・グリーンのままでいるのは難しい。でもわたしは青春のグリーンのままでいたい」
という歌詞は、ジョー・ラポーソが<Bein' Green>という唄にして、1971年にフランク・
シナトラが唄いヒットした。
 まさに、鮮やかな青春の色彩のままで人生を次世代に<ゆずりたい>という歌詞の深み
は、そのままこの映画の主軸になっている。
「人生でやり遺したこと」を探すという旅は、市子にとっては、あの龍神池で会った少年
の描いた「原風景」という絵のオリジナルを、いまこそ自分の目で確かめるというもの。
 たまたま軽井沢の画廊で、その画家の個展が開催されていたので、彼女は想い出探しの
旅にでるのだが、それは手探りのような心の旅路となる。
 それとは知らずに突然帰国したひとり息子は、その画家の個展の開かれている軽井沢に
向かうが、ケータイの電源を切っているという母、市子の動向はつかめない。
 これが、実はこの作品のテーマの伏線になっていて、いまどきスマホもなく連絡が取れ
ないという状況は、まさに昭和という時代をひとりで生き抜いた女性らしいエピソードで、
この親子の、それぞれの人生の<かくれんぼ>でもあるようだ。
 その<ゆずり葉>のように美しい八千草薫と、息子の風間トオルの絡みがいい。
 むかし、ケイリー・グラントが画家を演じてヒットしたレオ・マッケリー監督の『めぐ
り逢い』(57)は、まさにこの作品のような<すれちがい>の名作だった。
 大西洋航路の帰路で知り合った画家は、歌手のデボラ・カーと恋におちて、1年後の再
会を約束したが、エンパイアー・ステイト・ビルの屋上で、会う筈の彼女は来なかった。
 彼が描いた彼女の肖像画はギャラリーで売れたが、買ったひとは見つからない。
 数年後に偶然見かけた彼女は、劇場の座席から立とうともしなかった。傷心の画家は彼
女のアパートを探して、やっと会ったが、ソファーから立とうともしない彼女は、実はデ
イトの日に気持ちが急いて交通事故に遭い、下半身不随になっていたのだった。
 そして彼女を描いたポートレイトは、彼女のベッドルームに密かに飾られていた。
公開された当時は大ヒットしたが、実はこの作品は、監督自身が『邂逅』として戦前に
映画化した名作のリメイクで、<すれちがい映画>の原点でもあった。
 軽井沢で探していた画家の家で<原風景>に再会した市子は、彼が緑内障になっていた
が、応接間でオルゴールの音色に合わせて、まさに手探りで一緒に踊るシーンは、まるで
回転木馬のように、あの日の時間を思わせる。そして彼女は飴玉を彼に手渡すのだ。
 そのシーンを、まさに手さぐりの様に、ハンディ・カメラで描いた演出が暖かい。
 市子の「邂逅」は、手さぐりの想い出探しの旅で果たされたのだ。


★筆者の<原風景>
 たしか入社面接のために背広を新調しようと、1957年の初夏に、偶然、自由が丘の南風座と
いう映画館で、東宝の「新しい背広」という映画を見て、主演の八千草薫さんに恋をした。
どうしても彼女の笑顔が欲しくて、翌日もカメラを持って映画を見たものだ。
 その後も出演映画には通い、家の近所の玉川高島屋の店内では何度か彼女とすれ違った
ものだが、一度もお声をかける勇気はなかった。そして50年が過ぎた。


●神田の神保町、岩波ホールで、19日までの公開中です。
プログラムにお手伝いしましたが、いい映画ですよ。

872.<街・もりおか>6月号です。  
名前:細越麟太郎    日付:2015/06/01(月) 08:32
●「街・もりおか」6月号

●盛岡番外地❸  雨の朝、オテル・ドゥ・ノール       細越麟太郎


 大学受験の為に盛岡を出てから、東京の会社に就職して結婚して所帯を持ち、そのあと
両親も他界してしまい、盛岡の加賀野の実家も、とっくに消滅してしまった。
 しかし北山にある墓には毎年必ず墓参に帰るので、盛岡に在住の旧友たちとは必ず会っ
ている。そして盛岡への愛着も、絶対になくしてはいない。
 だから毎年、盛岡で泊まるホテルは、その時のホテル事情で変わるが、楽しみだ。が、
昨年の秋には全国の医師会の学会とダブった関係で苦労した。そんなときには慌てずに繋
温泉に宿をとるが、おかげで盛岡のホテルには、大抵泊まったことがある。だから盛岡に
在住の方々よりは沢山のホテルに泊まり、それぞれの魅力も知っている。
 そこで、この本誌の連載に「盛岡ホテル物語」を連載して、それぞれのホテルの魅力を
書こうかと考えたが、それには諸々な利害や問題も予測されるのでやめてしまった。
 当然、生家に近い関係で内丸の界隈には愛着があるが、いまの<北ホテル>の場所には、
わたしの少年時代には、立派な木造の旅館があり、落ち着いた佇まいだった。
 実は映画の好きなファンにとっては、『北ホテル』というのは、マルセル・カルネ監督
1938年の名作で、今でも年に1度はDVDで見るほどのお気に入り。
 父が好きだったルイ・ジューヴェが出演していて、彼が演じた初老のジゴロが渋とくて、
いまでもジャン・ギャバンと共に、フランス映画最高の名優だ。と確信している。
 80年代の初めの頃、テレビCMの撮影で、パリの北駅に近いサン・マルタン運河に行
ったことがあり、小さな運河に架けられた階段式の歩道鉄橋に早朝スタンバイした。
 朝もやの運河に架けられたその橋にモデル嬢を立たせての撮影だったが、その朝は霧の
小雨という悪条件だったが、いかにも古風なパリを香らせる絶景でもあって、われわれは
雨にもメゲズに撮影を開始したが、その作業に気がついた近くのホテルが1階のカフェの
ライトをつけてくれたので、そこが、あの『北ホテル』だったことに気がついた。
 あの作品の大好きなわたしは、もう撮影の仕事どころではなくなり、その運河添いのホ
テル1階にあるカフェのオープンの様子に見入っていたのだった。
 ともかく撮影はあっという間に終了し、機材をスタッフと片付けている間に、わたしは
スエーデン出身のモデル嬢と、北ホテル1階のカフェに行き、取り急ぎクロワッサンとコ
ーヒーをオーダーして運河沿いのシェイドの下のテーブルで一服した。
 おそらく、カフェもホテルもあの映画の時と同じで、50年ほどのカビ臭さに朽ちてい
たが、わたしはジューヴェの気分に、二日酔いが持続していたのだ。
 「ここはむかし、映画の舞台になったホテルでね・・・」「・・・・・」
 「若い恋人たちが心中をしようとしたんだ」「・・・・・メ、ノン・・」
 やっぱり、若いモデル嬢には、50年も昔の映画のことなんて、歴史の授業のようにカ
ンケイないのかも知れない。クロワッサンの残りを、鳩たちの朝食に上げている。
 内丸にある「北ホテル」のオーナーは、さすがにあの名画を知っていて、このホテルが
新築されたときに命名したという。パリの「オテル・ドゥ・ノール」は、今では老朽化で、
1Fのカフェのみの営業だと聞くが、盛岡の「北ホテル」は健在だ。
 わたしは早朝のホテルを出て、中津川の辺りを散歩するのが大好きだ。あのサン・マル
タン運河も階段の鉄橋もないが、ちょっとした旅愁を一息でも感じる時間が好きなのだ。

●カット写真は、映画「北ホテル」リバイバル上映パンフレット表紙です。


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