小柴昌俊はいう。 >人間がものごとを達成する総合的な能力は、受動的能力と能動的能力の掛け算で決まる >「受動的能力」とは教授(先生)のいうことを理解して吸収する力で >「能動的能力」とは自分で何を、どうやるのかを自分から働きかける力
これ、ワタクシつくづく禿同だな。ま、さんざんカキコしてきたんだけど、 情報は、ただただ単にその数があってそれを覚えていりゃあいいてえモンぢゃあなくて、 そこになんらかの意味と目的意志があるからこそ初めて全てが活きてくる。 社会性ない=自分と同類(同じ語彙で同じコトを同じプロセスで思考)でないとコミュニケーション出来ないちうのは、 まずこの「能動的能力」がないちうことね。 同じくよくある「意見がナイ」ちうのも、ひとつも考えてません=思考停止そのものだし。 学校では「受動的能力」ダケひたすらスキルアップすりゃあなんとかなる。 しかし、いざ、社会に出て働く(ゼニもうけということではない)=社会性ということは、 自分の知らないことを自発的に学び、出来ないことを可能にしていくという能動的姿勢である。 決して、自分の手持ちの知識や技量や人脈や金がタンとあることがシゴトの出来る能力ではない。 それは全て能動的能力の後からついてくるものなのである。 だから「自己啓発セミナー」とか行って受動的に能動的能力をつけようとしても、 なにが「ワカラナイ」のか解らなくて「誰かに教えてもらおう」と想ってる時点でそれは思考停止である。 山程小難しい本を読破して要約しても、それは全てその著者の思考であって、 それで自分がナニをドウ思考してるのか自己判断しつづけないと、それは思考停止である。 大体、学校や軍隊や党派や共同体というところは、どのようにその建前を標榜しようとも、 異質は常に自動的正統的に隠蔽され、最も異質な他者のいないところである。 そういうところばっかりにどっぷり浸かってると、いつまでたっても能動的能力は付かない。 「叡知」というのは、正論や思想を武器に他者を論破しようと虎視眈々としてるいぢ汚いヴァカなんぞではなく、 同じ語彙で同じコトを同じプロセスで思考しない異質=他者と色々なコミュニケーションが保てることである。
●358.での「超漢字」についての補足 坂根健東大教授提唱の国産OS「TRON構想」漢字コード。GT明朝/東大漢字などとも称される。 デシタル化された文字コード(JISコードやこれを包摂したUNIコード)のひとつ。 テキストをデシタル化していく過程で、 「高島屋の「ハシゴ高」とか森鴎外の鴎を「正字」で表したい」という現在の文字コード「不満」を覆うべく、 一番漢字数の多い康煕辞典64,000文字を一挙にデータ化しちゃえばいいんぢゃんつープロジェクト。 文字というのは、明朝体宋朝体の「書体」や行書草書の「書風」といった カタチにおとしこんで初めて成立するものである。 「高島屋の「ハシゴ高」とか森鴎外の鴎を「正字」で書きたい」というようなハナシは、 「書体」「書風」のカタチのハナシ(だからそこで対処される問題)なのに、 そのカタチ内容の理解も区別も成り立ってきた文化背景も無視しまくりんぐに、それを全て「文字コード問題」とした。 基準も方針も考え=体系の違うモンを根こそぎ全て文字コードという元のトコから 一緒くたにしてしまう「機会均一」こそが平等民主主義?ちうことかぁ。 文字特権階級を自認なさる「日本文藝協会」の我こそは文学者なお歴々は、文章書きの文字来歴知らずそのままに、 パソ画面で直面する「高島屋の…」な文字コードと表記書体を混同して「日本語表現文化の自由」大侵害と思い込み、 13,000コード(JIS)よりや64,000コード(超漢字)のほうが創造的、大きいことはいーことだとばかりに、 一元巨大データベースヒエラルキーこそ科学論理的と疑わない情報科学論者とお手手つないで、 どアホオな非文化道に突っ込んで行かれたのであります。 「永遠テキスト」「デシタル修復で永遠に劣化しない映画」「止まらない人工心臓」の夢さめぬ かけがえのないアタシな莫迦はタンといる。
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