「明日がある」と私たちは、固く信じて生きています。だからこそ、明日の予定を考えるのです。朝は六時に起きて食事を済ませ、九時までに出社し、期限が迫っている仕事は午前中に片づけて、午後からは……と計画を立てています。そんな毎日が、ずーっと続いてゆくように思っていますが、果たしてそうでしょうか。期待通りにいつまでも、「明日」がやってくるならば、人は、永遠に死なないでいられることになります。しかし実際は、「明日も生きておれる」と信じていた人が今日、交通事故や病などで亡くなっているのです。「明日あり」と思う心は私たちの迷いであり、今晩、死ねば今宵から、たった独りで後生へと突っ込んでゆかねばなりません。 生ある者、必ず死すと言われるように、死は何人にも否定できない厳粛な事実であると同時に、いつやってくるか分からない未来なのです。 誰でも、親や兄弟姉妹、親戚 、友人などの死に出会うと泣きます。「もう再び会えないのだなあ、話もできないのだなあ」という別 離の哀しみもありますが、「自分もいつか必ず、再び帰っては来られない遠い旅に、たった一人で旅立たねばならないのだなあ」という恐ろしい淋しさから、自分のために流す涙でもあるのです。 しかし、遺体の前では泣きますが、それもその時だけです。自分だけで自己の死と対面 し、死を考えようとはしません。恐ろしいからです。 病気が怖い、老いが怖い、失敗が怖い、地震が怖い、核戦争、公害、食糧危機、人口問題、エネルギー危機といっても、その根底には死があるからです。 死という核心に触れるのは余りにも恐ろしすぎるので、それに衣を着せ、やわらげたものに対面 しようとしているのですが、誰にでも死は確実に訪れます。それは、今日の次には明日が来るし、春の次には夏が来るように、万人がやがて必ず直面 しなければならない大問題です。この死の不安の影につきまとわれている人間に、真の幸福が味わえるはずがありません。 では、なぜ死が恐ろしいのか。それは、「死は休息である」とか、「永眠である」とか言ってはいますが、 死んだらどうなるか真実、それがハッキリしないからです。これを仏教では、「暗い後生」といい、「一大事の後生」といいます。親鸞聖人は、この後生暗い心に驚かれたのです。 死の恐怖は決して死後の世界と無関係ではありません。百パーセント確実な後生に明かりがないのですから、現在も安心できないのは当然です。苦悩の根源は、一大事を抱えた後生暗い心にあるのです。 親鸞聖人は、「呼吸之頃即ち是来生なり。一たび人身を失いぬ れば、万劫にも復らず。ー乃至ー、願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すこと勿れ」(教行信証・行巻)と教えられました。 一息一息が後生と触れ合っているのだから、一大事の解決を急げ、と叫び続けてゆかれたのです。 この魂の解決をして、死もさわりとならない無碍の大道へ雄飛しないかぎり、本当の幸福にはなれません。 苦悩の元である後生の一大事の解決こそ、生涯かけての最大事であり、全人類究極の目的です。
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