ゆゆ様 >昨日までなぎの水面と興づるをいつか流るる明日香川かな
「きのふの淵ぞけふは瀬になる」と古今集に詠まれた明日香川。御作は、昨日の《凪》から今日の《流れ》への変化に興趣を見出しています。本歌との対比で面白みを増す歌ですね。 「なぎの水面と興ずるを」までは調べよく流れています。下句も悪くないと思いますが、やや穏当に過ぎ、盛り上がりに欠けることが惜しまれます。例えば、
昨日までなぎの水面とながめしを今日は早瀬の明日香川波
などとすれば、下句でスピード感が出、前半との対照がより生きるでしょうし、また、川のイメージの喚起力が少し強まりはしないでしょうか。 一首の趣意をより生かす工夫の余地はまだまだあると思います。改作の一例として、ご参考までに。
深草様 >何方に着くかと問へは果てもなし楽しくつらきわかひと世川
ひとすじの川の流れを人生に重ね、果ては知れないけれども、楽しいこともあれば辛いこともあるに違いないと、その行末を遥かに思う。「わがひと世川」は「わが一世(人世)」に歌枕「一夜川」を掛けて、一首の趣意を巧みにまとめた結句です。
写歌様 >せせらぎの果てに海原はるけくもいづこ限りぞ流るるあが日
やがて大河となり海原に注ぎ込む小川と対比して、己が生の行く末を思いやる。「はるけくも」には空間的な意味と時間的な意味が重なり、また上句から下句への結節を担って、重厚たる腰の句です。つづく「いづこ限りぞ」へと、一気に盛り上げてゆきます。
海松純様 >空蝉の同じ我が身と水無瀬川浅瀬の水脈にうつるもみぢ葉
「水無瀬川」に「見(あるいは「見なし」)」を掛け、川の浅瀬に映っている紅葉と、それを眺めている我が身を「空蝉の同じ」ものと観じている。「うつる」は「映る」の意に「移る」すなわち葉が衰え散りゆくことも暗示して、無常の心を深めています。物の像を映すという川の一つの本意から、意表を突くような発想に、目をみはる思いです。 細部では、「浅瀬の水脈」が少し気になりました。「水脈」は舟の通り路で、水深が深くなっているところを言うのが普通です。ここで「水脈」という語を使う必然性があまり感じられません。それと、紅葉を「我が身と」同じと見なすよりも、我が身を紅葉と同じと見なす、とした方が情趣はまさるのではないでしょうか。
空蝉の身は同じきと水無瀬川浅き水面にうつるもみぢ葉
という改作例を考えてみましたが、調べが今一ですね。第四句は「浅き鏡に」なども考えてみました。 我が身も紅葉とともに水面に映っている、とすれば、さらに深みが出るでしょう。
ういろう様 >谷川の岩越す波は砕けてぞ常にも全き玻璃の細工や
岩に砕ける水を硝子細工に見立てる、という発想に驚きます(玻璃には水晶の意もありますが、どちらにしても)。しかし、スローモーションの映像で見れば、確かに砕け散る硝子によく似ていますね。硝子と違うのは、水はすぐもとに(ひとつに)戻るということで、まさに「常にも全き」もの。水という存在の面白さに改めて気づかせてくれます。川を流れる水の美しさを、意想外の着眼から際立たせた一首とも言えましょう。
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